藤田嗣治とその時代
国立京都近代美術館で開催されている「没後50年藤田嗣治展」に行ってきました。
東京美術学校卒業時の作品から晩年を過ごしたフランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクでの作品まで、国内および海外の美術館・個人所蔵の絵画126点が年代別に展示されています。藤田嗣治が生きた時代と共にその作品が鑑賞できる回顧展でした。
作品リスト | List of Works
- Ⅰ 原風景―家族と風景 Primal Landscapes–Family and Surroundings
- Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで Early Paris Day–The First World War
- Ⅲ 1920年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿 Self-Portraits and Portraits of the 1920s–Faces of the Times
- Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代 The “Milky White Nudes” Era
Ⅴ 1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア Artist on the Move–The 1930s in North America, Latin America, and Asia - Ⅵ-1 「歴史」に直面する―二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History–Encounter with the Second “Great War”
- Ⅵ-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ Face to Face with History–The War Paintings
- Ⅶ 戦後の20年― 東京・ニューヨーク・パリ The Last Twenty Years–Tokyo, New York, and Paris
- Ⅷ カトリックへの道行き Path to Catholicism
「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~藤田嗣治」NHK
やっと日本において藤田嗣治が多くの人から正当に評価される時代が来たのかもしれない…NHKの番組を見てそう思いました。少し長くなりますが…感想をまじえて要約してみました。
◇ 誹謗
藤田が亡くなったのは1968年、没後も日本においては、藤田への誹謗が続いていたのを知り驚いた。
「……戦争にでもなると罪の無い人を戦争に駆り立てる絵を描く。そんなことをしておいて敗戦したら国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。こんな者を芸術家と呼べるであろうか。まことに恥ずかしい……」 美術クラブ 1976年
いったい藤田嗣治はどのような時代をどのように生きてきたのだろうか。
◇ 1913年 パリへ
藤田は1886年 東京で誕生。東京美術学校を卒業すると単身パリへ。当時、日本からパリに渡った日本人画家はアカデミーと呼ばれる伝統的美術学校で学ぶのが普通だったが、藤田はキュビズムを提唱するピカソらの刺激を受け独学で絵を学んだという。
その頃、日本の家族に宛てた藤田の手紙にその覚悟が示されている。
「折角この世に生まれて人の真似をしたり俗人を喜ばせたりする様な絵を描いて死んでは天に対してもすまぬこと。何れの真似でもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝になるのである。」
◇ 狂乱の時代と「乳白色の肌」の裸婦像
1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結。その頃パリは「狂乱の時代」と呼ばれる時代。
藤田は、彼の代名詞ともなる「乳白色の肌」の裸婦像を次々にサロンに発表し入選。エコール・ド・パリと呼ばれるモディリアーニ、シャガールらと共に、高い評価を受け時代の寵児となる。
「乳白色の肌」の裸婦像を描くにあたり藤田は浮世絵の技法を取り入れ、肌の質感を出す独自のカンバスを考案していた。
この頃、日本の画壇では藤田を誹謗中傷する声があがっている。
「……芸術家としての真の情熱を忘れひたすら人気とりの為に全力を注ぐ有様。画家の身上は画業以上に態度において決定されるもの。よき芸術を産むことができるはずがない。……熊岡美彦」
酒を飲めない藤田は、一日普通14時間、仕事に励む際は18時間絵筆を持つことを常としていた。日本における誹謗中傷は藤田にとって受け入れがたいものであったことだろう。
◇ 帰国
1929年世界大恐慌とともに「狂乱の時代」は終わる。藤田は新しい絵を模索し世界を旅した後、日本に帰国する。
日本に帰った藤田は巨大な壁画を各地で描き上げている。
藤田は言う。「画家が名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく大衆の為の奉仕も考えなければならない。」
◇ 日中戦争・第二次世界大戦と戦争画
1937年 日中戦争が勃発。軍部は国民の戦意高揚のため戦争画を描くことを名だたる画家に要請する。藤田も日本の画家仲間と共にこれに参加。
戦争画を描くにあたり、藤田はルーブル美術館にあるドラクロアやベラスケスの歴史画を参考にした。写実性に縛られず現実の出来事をより劇的に描くことを念頭にルーブル美術館の偉大な歴史画につらなる傑作を生み出すことを願っていたという。「アッツ島玉砕」等の絵を残す。
◇ ニューヨークへ…「カフェ」
1945年終戦。GHQは占領下の日本に於いて戦争責任の追及を開始する。日本美術界はこれに敏感に反応。名だたる画家はすべて戦争画を描いていたにもかかわらず誰が責任を取るべきかアンケートを取った。
こうしたある日、後輩の画家が藤田を訪ねる。
「どうか先生、皆に代わって一人でその罪を引き受けて下さい。」
画家がGHQから戦争責任を問われることはなかったが、藤田は日本を離れることを決意。
「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。」の言葉を残しニューヨークに旅立つ。以来、日本に帰ることは二度となかった。
ニューヨークに渡った藤田は再び女性画を描き始める。没後50年藤田嗣治展のポスターにもなっている「カフェ」はこの頃の作品。
◇ 再びパリへ
1950年藤田は再びパリに戻る。1955年日本国籍を捨てフランス国籍を取得。1959年には洗礼を受ける。洗礼名 レオナール・フジタ。
藤田74歳の時、フランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクルの小さな農家をアトリエとし、妻と二人での生活を始める。創作活動を続けるかたわら、日本の浪曲や落語のレコードを楽しむ生活を送る。
◇ 聖堂ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画
79歳の時、ランスの小さな礼拝堂の壁画を描く。藤田初めてのフレスコ画である。フレスコ画はルネサンス時代の技法。壁に漆喰を塗り生乾きの内に素早く描き上げなければならず技術と体力が必要とされる。壁画完成のあと1968年に逝去、享年81歳。
壁画には藤田の自画像も描かれている。藤田最後の自画像である。
絵に対して誠実でひたむきであった藤田嗣治。作品とともにその生き方に深い感銘を受けた。
「絵には生きている魂がある。」…藤田が残した言葉である。