


花・生け花・食・本・旅・俳句・雑感・・・
良心の碑…「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」
新島襄の旧邸を見学。
外観は何度となく見に行ったことがあったのですが、内部を見せていただくことができる特別公開日に行くのは初めてでした。
この日は、おりしも卒業式。大学のキャンパスはとても華やかでした。
有終館…当初は「書籍館」と呼ばれていた同志社最初の図書館。D.C.グリーンの設計により1887年11月に竣工。図書館の役目を終えた際に、時の海老名弾正第8代同志社総長が「有終館」と名付けました。
クラーク記念館…B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館。
同志社礼拝堂…D.C.グリーンによる設計で、1886年6月に竣工したプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物です。
同志社徽章…正三角形を3つ寄せたもので、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの。知・徳・体の三位一体あるいは調和をめざす同志社の教育理念をあらわしています。考案者は湯浅半月。
スクールカラーは、ロイヤル・パープルと白の2色。創立者新島襄の母校、アーモスト大学のスクールカラーでもあります。
1875年11月29日、新島襄は、高松邸(高松保実所有)の半分を賃借し、生徒8名で同志社英学校を開校しました。
翌年、同志社英学校は旧薩摩藩邸跡地に移ります。これに合わせ、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。和に洋を取り入れた大変モダンなつくりの邸宅です。
新島は、亡くなるまでの十年間、妻の新島八重さんとこの邸宅で過ごしました。また、新島は、年老いた両親のために附属屋を建築しています。附属屋は、江戸藩邸にあった住居に準じた和風の造りとなっています。
老朽化から一階部分のみの見学が許されていました。
新島旧邸 外観
新島旧邸 書斎…整理整頓好きな新島の書斎はいつも整然としていました。
蔵書のほとんどは洋書。同志社の学生たちは図書室のように自由に利用していたということです。
応接間…当時としては画期的なセントラル・ヒーティングが設置されていました。
応接間には、勝海舟による六然の書があります。
食堂…新島は洋食が好みで、洋風の料理に使う野菜などは庭で栽培していたということです。
新島八重の茶室…新島の死後、八重は1階洋室を改造して茶室にしました。
茶室の名前は「寂中庵」。八重の茶名は新島宗竹、裏千家13代家元千宗室に師事していました。
洋式トイレ…板張りの腰掛式トイレ。日本で初めての洋式トイレと伺いました。
新島 襄の墓
新島 襄は東山若王子山頂にある同志社墓地に埋葬されています。ここには、新島をはじめ、妻新島八重や山本覚馬、同志社関係の宣教師たちが眠っています。
新島は、明治23年(1890年)1月23日に神奈川県大磯で天に召されました。享年46歳。新島の遺体が京都に運ばれたのは4日後の1月27日。同志社チャペルでの葬儀が終わると、生徒たちが代わる代わる新島の棺を担ぎ、東山若王子まで運びました。
永平寺を参拝したあと、かねてから一度行きたいと思っていた一乗滝と一乗谷朝倉氏遺跡へ。
桜の頃に来てみたいなと思いつつ…一乗谷をあとにしました。
福井市城戸ノ内町にある一乗谷は戦国時代朝倉氏五代の城下町として栄えました。
朝倉家五代目当主、朝倉義景は、織田信長との戦いに敗れ、一乗谷は神社仏閣、居館から町屋に至るまで火を放たれ消失しました。当時、城下には一万人が暮らしていたそうです。
一乗谷朝倉氏遺跡は、一乗谷城と城下町からなり、国の特別史跡に指定されています。
一乗滝は、福井市浄教寺一乗谷の一番奥まったところ一乗山の山懐にある落差12mの滝。
剣豪佐々木小次郎がここを修行の場として、心技の秘術「燕返し」をあみだしたところとも伝えられています。
岩流(佐々木)小次郎は、越前宇坂の庄、浄教寺村の生まれと江戸時代の書物「二天記」にその記録があります。
虹立つや神の大瀧木かくれて 伊与鹿峰
今日は彼岸の中日。永平寺にお参りに行ってきました。
永平寺は、寛元二年(1244年)、越前の国に、道元禅師によって開かれた坐禅修行の道場。道路も整備され車で行くことができますが、四方を山に囲まれた深山幽谷の地にあります。
唐門
伽藍には僧侶が修行をする清浄な場所という意味があり、禅宗寺院では、法堂、仏殿、僧堂、庫院、山門、東司、浴室を指して「七堂伽藍」と呼び、中でも僧堂、東司、浴室は「三黙道場」といわれ、修行をする上で大切な場所とされているということです。
仏殿…七堂伽藍の中心に位置し、お釈迦様(釈迦牟尼仏)が祀られています。右奥に見えるのは大庫院。
法堂…七堂伽藍の一番奥に位置し、朝課など各種法要が行われます。この日は、吉祥会の献茶式の法要が執り行われていました。
山門…1749年建立。唐時代様式の楼閣門で、両側に佛教の守護神である四天王が安置されています。
報恩塔…写経を納める塔です。
中雀門
鐘楼
混陽山 地蔵院、通称「椿寺」の散り椿が見頃を迎えていました。
地蔵院は、京都 嵐電 北野白梅町駅から歩いて五分ほどのところにあります。
摂津国伊丹の昆陽野池のほとりに行基が建立、京の衣笠に移された後、1589年に豊臣秀吉が、現在地の地に移しました。
花が落ちず、花びらが一枚づつ落ちる椿「五色八重散椿」は、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰り、豊臣秀吉に献上したということです。
現在の散り椿は二代目で、樹齢は120年とのことです。
「散り椿」の御朱印は、散り椿が咲く季節のみ頂く事が出来るようです。
猫柳の花が咲き始めました。
猫柳は雌雄異株で、雄花は雌花に比べて大きく、黄色に紅色が混じります。
鉢植えにしている花。オーストラリア原産だとか、鼻を近づけるといい香りがします >^_^<
別名「星の瞳」…こちらの名前のほうがいいかもしれませんね。
大好きな詩のひとつを紹介します。
これが イヌノフグリなの
教えて下すった女先生は
メガネいっぱいに笑っておられる
かわいいでしょ
とつまみあげられた
ぼくは犬のふぐりのかたちを探した
犬から ぽおおんと
もぎとったものは
しかし どうしても見えなかった
先生は もうずんずん
堤の先を行っておられた
淡いむらさきの花
あらわで さっぱりと
あるかなきかをくるんでいる
葉っぱ
これが イヌノフグリなの
と教えて下すった先生の
にこっとなさるメガネに
いまも イヌノフグリが
咲いて見える。
これが
イヌノフグリと言わぁね
そう言うて若いオナゴの先生は
メガネいっぱいに笑いよる
かわいらしいろうがね
そう言うて 小指をぴんとはねてからに
オナゴ先生はつまみあげよる
ぼかあ フグリちなんかわからんき
フグリちなんぞ?
海におるフグみたようなもんか?
と問うてみた
あら あんた知らんが?
と言うてから
オナゴ先生はぽおっと顔を赤うにしよる
けんど言うてくれた
子犬の股に付いちょるもんよね
あんたの股にも付いちょるもんよね
そうわかると ぼかあ
犬のふぐりのかたちになっちょるかどうか
みんなあが糸目と言うてぼくをバカにする
ちんまい目を引きしゃいて見てみた
けんど
犬から ぽおーんともぎ取っちょるもんは
どういても見えん
ぼくのがみやようなもんも
どういても見えん
オナゴ先生は もうずんずん
堤防の先を行きよる
これが
イヌノフグリと言わあね
と教えてくれたオナゴ先生の
にこにこしよるメガネに
いまも
イヌノフグリが咲いて見えよる。
詩集「いごっそうの唄」より…