志る幸 

志る幸は、河原町通より木屋町通に抜ける真橋通に面したお店。創業九十年の老舗、元々は幕末の勤王志士・古高俊太郎の住居であったそうです。
お店お勧めの利休弁当は、かやくごはん、魚、ゼンマイ、鶏肉、卵、漬物に、白味噌のお味噌汁がつきます。お味噌汁はとても上品な味で美味しく、おかわりしたいくらい。
池波正太郎や司馬遼太郎、田辺聖子さんなど作家にも贔屓にされていたお店だと伺いました。

お昼を志る幸でいただいたあと、辺りを少しだけ散策、桜のころとあって賑わっていました。

松籟庵

嵯峨野の豆腐懐石 松籟庵
鴨川で野点のおもてなしを受けた後、市バスで嵐山へ。
花のころの土曜日とあって、渡月橋界隈は黒山の人だかりと言うことばが決して過言ではない賑わい。渡月橋より桂川の道沿いを上流の方へ足を進めると、次第に道行く人もまばらになり、やがて、豆腐懐石の料亭「松籟庵」に至ります。庵は樹木に囲まれた閑静な佇まい。女将は書画家の小林芙蓉。屋敷内には流麗な書画が飾られ、先ほどまでの渡月橋界隈の喧騒が嘘のよう。美味しい豆腐懐石でした。
渡月橋の袂には、「琴きき橋跡」と刻まれた石碑があります。平安の頃、高倉天皇は琴の名手小督を寵愛しました。しかし、天皇の中宮は平清盛の娘徳子。清盛の怒りは大変なものでした。小督は宮中を去り嵯峨野に身を隠します。天皇の悲しみは深く、源仲国に小督を捜させます。仲国は、名月の夜なら小督はきっと琴を弾いているに違いないと、嵯峨野を訪ねます。いつしか、法輪寺辺りまで来て馬を止めると、何処からか、かすかな琴の音が聴こえてきます。それは唐楽の曲「相夫恋」、帝への想いを奏でた曲でありました。天皇と小督は逢瀬を重ねますが、やがて清盛の知るところとなり、小督は出家を命ぜられます。天皇は、若干二十一歳で崩御、東山にある清閑寺に葬られます。尼となった小督は、清閑寺近くに住み、高倉天皇の菩提を弔いながら四十四歳まで生きたと伝えられています。  
家の土産に石碑の筋向いにある「琴きき茶屋」の桜餅を買いました。こし餡を使わず、塩漬けにした桜の葉で真っ白な道明寺餅を挟んだ桜餅は、ほのかな甘さと程良き塩加減の風味が何とも美味しい一品です。
嵐山からは、久しぶりの嵐電。正式名称は京福電気鉄道嵐山本線・北野線ですが、親しみを込めて嵐電(らんでん)と呼ばれています。蚕ノ社(かいこのやしろ)や帷子ノ辻(かたびらのつじ)など、名の由来を知りたくなる駅名もいくつか。
例えば「帷子ノ辻」…嵯峨天皇の皇后 橘嘉智子は世に類なき麗人でありました。仏教に深く帰依した皇后は、諸行無常の真理を自らの身をもって示すため「死に臨んで亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよ」と言い残しました。遺言は守られ風葬されました。その場所が「帷子ノ辻」であったということです。
京都駅より湖西線に揺られて帰着。楽しい一日でした。