月桂冠 大倉記念館

四条から京阪電車に揺られること20分。伏見桃山駅で下車。しばらく歩くと酒蔵の街並みが見え始めます。

伏見は、天然の良水に恵まれた土地。灘の宮水がしっかりした硬水なのに対し、伏見の伏水はまろやかな中硬水。柔らかい水から造られる優しく芳醇なお酒は「女酒」と呼ばれ、灘の「男酒」とはまた違った魅力。思いつくだけでも、黄桜・金鵄正宗・月桂冠・松竹梅・玉乃光・月の桂などなど、飲んでみたい銘酒ばかり。

月桂冠大倉記念館は、寛永14年(1637)、徳川三代将軍徳川家光の時代に創業した「月桂冠」の歴史と明治時代の酒蔵が再現された博物館です。試飲されますかと受付で聞かれ、帰り運転なのでと言うと、それならお家でどうぞとワンカップを2本もいただいて、すっかり嬉しくなってしまいました。
記念館近くの宇治川派流 濠川のほとりは、十石船の船着き場。白壁土蔵の酒蔵が並び、江戸時代の風情溢れる街並みが広がります。

御香宮神社、明治天皇の伏見桃山陵も行きたかったけれど、時間切れ。途中、東寺の桜を見てから帰路につくことにしました。「伏水酒蔵小路」では伏見17蔵のお酒を飲み比べができると伺い、次回は、是非とも一泊で着たいところです。

都をどり  「泰平祈令和花模様」全八景  

「都をどり」に行ってきました。祇園甲部歌舞練場が耐震対策改修中のため南座での開催。改装された南座には、まだ行ったことがなかったのでそれも楽しみ。
令和になってから、コロナ禍のため開催が見合されていたので、令和の御代はじめての「都をどり」ということでした。

「ヨーイヤサー」の掛け声で幕が上がります。祇園甲部の芸妓・舞妓さんたちによる京舞は、四季折々の名所旧跡の景観を再現。爛漫の春、夏、錦秋の秋、深雪の冬、そして再びの春の花見で幕を閉じます。舞台右手に並ぶ長唄の方々、左手に並ぶ囃子の方々も素敵でした。
総をどりの衣装は京友禅と西陣織の匠の手による逸品で、毎年新作を誂えるということです。

公演時間は一時間。公演後、「祇園おめん」でつけ麺をいただき、伏見に向かうことにしました。

知恩院の桜

華頂山知恩院は、法然上人が開山した浄土宗の総本山。三門の桜が美しかったです。佛教大学の新入生祖山参拝の日であったらしく、多くの学生さんで賑わっていました。

京都の本屋さん 恵文社 一乗寺店

京都にお住いのFBFが紹介されていた本屋さん。今日こそはと、銀閣寺からてくてく歩いてやっと到着。
イギリス ガーディアン誌が2010年発表の「世界で一番美しい本屋10」で、唯一選ばれた日本の書店と知り、さもありなんと思う本屋さんでした。

最近、何処の本屋さんに行っても、本の陳列、ラインナップはほとんど同じなのですが、ここはとっても個性的。書籍は、何かしらのテーマのようなもので並べられていて、かといってジャンルがはっきり分けられているようでもなく、読みたいと思っている本を探しにくいと言えば探しにくいのですが、その代わりに、読んでみたいと思える本に偶然出合えそうでワクワク。本好きな人なら、半日は十分に過ごせそうです。
ジョルジュ・バタイユ、澁澤龍彦等の書が並ぶコーナーがあるかと思えば、あちらでは開高健の全集が紐くくりで積まれおり・・・まぁ~店内をうろつきまわるのが楽しい本屋さんなのです。

白沙村荘

久しぶりの銀閣寺界隈・・・
浄土寺橋より、白川疎水を左に見ながら今出川通りを慈照寺(銀閣寺)へ向かい、しばらく歩くと白沙村荘に至ります。もともとは、京都画壇で活動した日本画家、橋本関雪が造営した邸宅で、池泉回遊式庭園は7400平方メートルの広さ。居宅、画室、茶室、持仏堂、平安から鎌倉時代にかけての石像美術品が巧みに配置されています。
邸内には関雪の作品や収集品が展示されている橋本関雪記念館(MUSEUM)も建てられ、二階から眺望する東山は京都ならではの景です。

白沙村荘の隣には「お食事どころ はしもと」、予約をすれば白沙村荘内の座敷で会席を用意していただけるとか。その横にはスペイン風の洋館のレストラン「NOANOA」、テラス席でワインでも飲みたいところ。次回はどちらかで食事をすることにいたしましょう。

久しぶりの外歩き 京都七条界隈

~ 西本願寺・島原・東寺・勧智院~

鞄の修繕をお願いに京都駅近くにある鞄屋さんへ行ってきたのですが、このまま帰るのもなんだしと界隈を散策しました。
七条通りを西へ進み、四十年ぶりに修復されたという西本願寺の唐門へ。日が暮れるのを忘れて見とれてしまうほどの美しさから「日暮門」の別名がある唐門、豪華絢爛でした。

さらに西へ進み島原へ。島原大門を抜け、少し足をすすて右に曲がったところに、元禄年間(1688~1704)創業の置屋、輪違屋(わちがいや)があります。輪違屋より大門の通りに戻り、さらにまっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。

けっこう歩きましたが、南に下り、東寺をお参りして帰ることにしました。真言宗総本山 教主護国寺 東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院。青空に五重塔が映え、いい姿でした。

鞄の修繕ができたら電話をいただけるということなので、次回の京都をたのしみに帰りました。

西本願寺

島原

島原大門

京都の花街 島原跡地。寛永八年(1641)、六条三筋町より現在の朱雀野の地に移転することになりました。その時の移転騒動が、島原の乱(1637)を思わせたところから「島原」と呼ばれるようになったということです。「島原」の正式名称は「西新屋敷」。遊宴をすることにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで江戸中期には島原俳壇が形成されていました。

輪違屋 (わちがいや)

大門より少し足をすすめ右に曲がったところに輪違屋があります。輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた元禄年間(1688~1704)創業の置屋。現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたものです。内部の拝観は出来ないようです。

角屋

輪違屋より大門の通りに戻り、まっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、寛永18年(1641)、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。
文久三年(1863)9月10日、新選組 芹沢鴨は、この角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席したその夜、屯所で暗殺されました。

真言宗総本山 教主護国寺 東寺

東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院です。
桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇より東寺を託されたのは、唐で密教を学んで帰国した弘法大師 空海でした。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、
一の膳、二の膳、お茶が出されているということです。

真言宗総本山 別格本山 観智院

東寺の北大門を出ると北総門まで参道が続きます。この参道は、櫛笥小路(くしげこうじ)といい、平安時代以来そのままの幅で残っている唯一の小路だそうです。この櫛笥小路の東側に観智院があります。
観智院は、密教教学の勧学院(僧侶のための教育機関)。所蔵する密教の聖教類は1万5千件以上にのぼります。
客殿は、上段の間、次の間、羅城の間、暗の間、使者の間があり、上段の間では、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」を見ることができました。
客殿の東側にあるのは本堂です。本尊は、五大虚空蔵菩薩。五尊は蓮台に結跏趺坐(けっかふざ)し、獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅(かるら)という鳥獣の上に鎮座しています。
愛染明王の梵名は、ラーガといい、赤い色という意味です。人々を招き寄せて煩悩即菩提の境地に入らせる仏さま。煩悩即菩提とは、煩悩を離れて別に悟りはないという密教の教えです。