新緑の京都府立植物園 May, 2019

連休二回目のお出かけ (#^^#)
今日は植物園でのんびりすることに…

鯖街道を抜けて一路京都へ。大型連休のど真ん中でしたが、京都方面へ向かう車は少なく、一時間少々で植物園に到着。

植物園は、マルシェも開かれていて緑も華やか、のんびり散策できました。
北山通りでランチをと思っていたら、お目当てのレストランは超満員…(^^♪
方針を大転換して、学生の頃よく行っていた今出川の食堂へタイムスリップ することに。懐かしいAランチを40年ぶりに堪能。
帰りの道中、数台しか止められない蓮華寺の駐車場が空いているのが目に留まり、蓮華寺の青紅葉の庭を拝観することができました。



 

 

 

同志社大学と新島旧邸 March, 2019

良心の碑

良心の碑…「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」

 

新島襄の旧邸を見学。
外観は何度となく見に行ったことがあったのですが、内部を見せていただくことができる特別公開日に行くのは初めてでした。
この日は、おりしも卒業式。大学のキャンパスはとても華やかでした。

同志社大学

同志社大学 正門

 

同志社大学 有終館

有終館…当初は「書籍館」と呼ばれていた同志社最初の図書館。D.C.グリーンの設計により1887年11月に竣工。図書館の役目を終えた際に、時の海老名弾正第8代同志社総長が「有終館」と名付けました。

 

同志社大学 クラーク記念館

 

クラーク記念館…B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館。

同志社大学 同志社礼拝堂

同志社礼拝堂…D.C.グリーンによる設計で、1886年6月に竣工したプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物です。

同志社大学 正門

同志社徽章…正三角形を3つ寄せたもので、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの。知・徳・体の三位一体あるいは調和をめざす同志社の教育理念をあらわしています。考案者は湯浅半月。
スクールカラーは、ロイヤル・パープルと白の2色。創立者新島襄の母校、アーモスト大学のスクールカラーでもあります。



新島 襄旧邸

1875年11月29日、新島襄は、高松邸(高松保実所有)の半分を賃借し、生徒8名で同志社英学校を開校しました。
翌年、同志社英学校は旧薩摩藩邸跡地に移ります。これに合わせ、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。和に洋を取り入れた大変モダンなつくりの邸宅です。

新島は、亡くなるまでの十年間、妻の新島八重さんとこの邸宅で過ごしました。また、新島は、年老いた両親のために附属屋を建築しています。附属屋は、江戸藩邸にあった住居に準じた和風の造りとなっています。

老朽化から一階部分のみの見学が許されていました。

新島旧邸

新島旧邸 外観


新島旧邸 書斎

 

新島旧邸 書斎…整理整頓好きな新島の書斎はいつも整然としていました。
蔵書のほとんどは洋書。同志社の学生たちは図書室のように自由に利用していたということです。


新島旧邸 応接間

 

応接間…当時としては画期的なセントラル・ヒーティングが設置されていました。


新島旧邸 勝海舟の書

 

応接間には、勝海舟による六然の書があります。

  • 『自処超然』自分を絶えず突き放し眺めること。
  • 『処人藹然』人と接するときは和やかな気持ちでということ。
  • 『有事斬然』何か事があるときは、ぐずぐずしないできびきびとやること 。
  • 『無事澄然』何も事がないときは、水のように澄んだ気でいること。
  • 『得意澹然』物事が上手くいって得意な気分のときは、努めて淡々とした態度を示すこと。
  • 『失意泰然』 失意のときは、やせ我慢でいいからゆっくり落ち着いていること。

新島旧邸 ダイニングルーム

 

食堂…新島は洋食が好みで、洋風の料理に使う野菜などは庭で栽培していたということです。


新島旧邸 八重さんの茶室

 

新島八重の茶室…新島の死後、八重は1階洋室を改造して茶室にしました。
茶室の名前は「寂中庵」。八重の茶名は新島宗竹、裏千家13代家元千宗室に師事していました。


新島旧邸 洋式トイレ

 

洋式トイレ…板張りの腰掛式トイレ。日本で初めての洋式トイレと伺いました。


新島 襄の墓

新島 襄は東山若王子山頂にある同志社墓地に埋葬されています。ここには、新島をはじめ、妻新島八重や山本覚馬、同志社関係の宣教師たちが眠っています。

新島は、明治23年(1890年)1月23日に神奈川県大磯で天に召されました。享年46歳。新島の遺体が京都に運ばれたのは4日後の1月27日。同志社チャペルでの葬儀が終わると、生徒たちが代わる代わる新島の棺を担ぎ、東山若王子まで運びました。

散り椿 五色八重散椿 March, 2019

地蔵院 散り椿

混陽山 地蔵院、通称「椿寺」の散り椿が見頃を迎えていました。
地蔵院は、京都 嵐電 北野白梅町駅から歩いて五分ほどのところにあります。
摂津国伊丹の昆陽野池のほとりに行基が建立、京の衣笠に移された後、1589年に豊臣秀吉が、現在地の地に移しました。
花が落ちず、花びらが一枚づつ落ちる椿「五色八重散椿」は、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰り、豊臣秀吉に献上したということです。
現在の散り椿は二代目で、樹齢は120年とのことです。

「散り椿」の御朱印は、散り椿が咲く季節のみ頂く事が出来るようです。

地蔵院 散り椿

地蔵院 散り椿

 

早春の京都府立植物園 March, 2019

クロッカス

カタクリ

ユキワリイチゲ

ゲンカイツツジ

ヒュウガミズキ

ヒュウガミズキ

ダンコウバイ

ハチジョウキブシ

水仙・風信子・ショウジョウバカマ・ツワブキ・諸葛菜(ハナダイコン)

タチツボスミレ・ニリンソウ・ラショウモンカズラ
龍の玉・タチツボスミレ・テンニンソウ・イチリンソウ

オオスミリウ

相国寺 November, 2018

久しぶりの相国寺。近くには京都御所、同志社大学。紅葉が見頃だったが、観光の人もそれほど多くはなく、ゆっくりと紅葉を堪能できた。

相国寺は、金閣寺、銀閣寺をはじめ九十余ヵ寺を数える末寺を有する臨済宗相国寺派の大本山であり、京都五山第二位に位置するお寺。
京都五山とは、室町時代、足利義満が定めた臨済宗の五大寺を言い、南禅寺を別格とし、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が位置する。

法堂の天井には、鳴き龍として知られる狩野光信筆による蟠龍図がある。

方丈

禅宗寺院の住職の居室である方丈。原在中筆の「白象」他、襖絵が見事。

相国寺

相国寺 方丈 杉戸絵
白象 原在中筆

開山塔

開山塔(開山堂)には、開山夢窓国師像が安置されている。

相国寺

相国寺

相国寺

相国寺 開山堂 杉戸絵
芭蕉狗子図 円山応挙筆

相国寺

 

東福寺 November, 2018

慧日山 東福寺

東福寺は臨済宗東福寺派大本山、京都五山第四位の禅寺。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾。東福寺の建設工事は30年以上わたり法堂が完成したのは文永10年(1273年)。現在も25か寺の塔頭を有する大寺院。

東福寺 本堂


通天橋

主要伽藍の北に洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋が架かる。

東福寺 通天橋


開山堂

通天橋を渡ると、開山円爾を祀る開山堂がある。

東福寺 開山堂


三門

応永32年(1425年)に足利義持が再建。現存する禅寺の三門としては日本最古のもので国宝となっている。

東福寺 三門


方丈

方丈を囲んで四方に庭が配されている。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。

東福寺 方丈 庭園

東福寺 方丈 庭園


 

没後50年藤田嗣治展 November, 2018

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

藤田嗣治とその時代

国立京都近代美術館で開催されている「没後50年藤田嗣治展」に行ってきました。
東京美術学校卒業時の作品から晩年を過ごしたフランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクでの作品まで、国内および海外の美術館・個人所蔵の絵画126点が年代別に展示されています。藤田嗣治が生きた時代と共にその作品が鑑賞できる回顧展でした。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

作品リスト | List of Works

  1. Ⅰ 原風景―家族と風景  Primal Landscapes–Family and Surroundings
  2. Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで  Early Paris Day–The First World War
  3. Ⅲ 1920年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿  Self-Portraits and Portraits of the 1920s–Faces of the Times
  4. Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代  The “Milky White Nudes” Era
    Ⅴ 1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア  Artist on the Move–The 1930s in North America, Latin America, and Asia
  5. Ⅵ-1 「歴史」に直面する―二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History–Encounter with the Second “Great War”
  6. Ⅵ-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ  Face to Face with History–The War Paintings
  7. Ⅶ 戦後の20年― 東京・ニューヨーク・パリ  The Last Twenty Years–Tokyo, New York, and Paris
  8. Ⅷ カトリックへの道行き  Path to Catholicism

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~藤田嗣治」NHK

やっと日本において藤田嗣治が多くの人から正当に評価される時代が来たのかもしれない…NHKの番組を見てそう思いました。少し長くなりますが…感想をまじえて要約してみました。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

◇ 誹謗
藤田が亡くなったのは1968年、没後も日本においては、藤田への誹謗が続いていたのを知り驚いた。
「……戦争にでもなると罪の無い人を戦争に駆り立てる絵を描く。そんなことをしておいて敗戦したら国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。こんな者を芸術家と呼べるであろうか。まことに恥ずかしい……」 美術クラブ 1976年
いったい藤田嗣治はどのような時代をどのように生きてきたのだろうか。

◇ 1913年 パリへ
藤田は1886年 東京で誕生。東京美術学校を卒業すると単身パリへ。当時、日本からパリに渡った日本人画家はアカデミーと呼ばれる伝統的美術学校で学ぶのが普通だったが、藤田はキュビズムを提唱するピカソらの刺激を受け独学で絵を学んだという。
その頃、日本の家族に宛てた藤田の手紙にその覚悟が示されている。
「折角この世に生まれて人の真似をしたり俗人を喜ばせたりする様な絵を描いて死んでは天に対してもすまぬこと。何れの真似でもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝になるのである。」

◇ 狂乱の時代と「乳白色の肌」の裸婦像
1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結。その頃パリは「狂乱の時代」と呼ばれる時代。
藤田は、彼の代名詞ともなる「乳白色の肌」の裸婦像を次々にサロンに発表し入選。エコール・ド・パリと呼ばれるモディリアーニ、シャガールらと共に、高い評価を受け時代の寵児となる。
「乳白色の肌」の裸婦像を描くにあたり藤田は浮世絵の技法を取り入れ、肌の質感を出す独自のカンバスを考案していた。
この頃、日本の画壇では藤田を誹謗中傷する声があがっている。
「……芸術家としての真の情熱を忘れひたすら人気とりの為に全力を注ぐ有様。画家の身上は画業以上に態度において決定されるもの。よき芸術を産むことができるはずがない。……熊岡美彦」
酒を飲めない藤田は、一日普通14時間、仕事に励む際は18時間絵筆を持つことを常としていた。日本における誹謗中傷は藤田にとって受け入れがたいものであったことだろう。

◇ 帰国
1929年世界大恐慌とともに「狂乱の時代」は終わる。藤田は新しい絵を模索し世界を旅した後、日本に帰国する。
日本に帰った藤田は巨大な壁画を各地で描き上げている。
藤田は言う。「画家が名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく大衆の為の奉仕も考えなければならない。」

◇ 日中戦争・第二次世界大戦と戦争画
1937年 日中戦争が勃発。軍部は国民の戦意高揚のため戦争画を描くことを名だたる画家に要請する。藤田も日本の画家仲間と共にこれに参加。
戦争画を描くにあたり、藤田はルーブル美術館にあるドラクロアやベラスケスの歴史画を参考にした。写実性に縛られず現実の出来事をより劇的に描くことを念頭にルーブル美術館の偉大な歴史画につらなる傑作を生み出すことを願っていたという。「アッツ島玉砕」等の絵を残す。

◇ ニューヨークへ…「カフェ」
1945年終戦。GHQは占領下の日本に於いて戦争責任の追及を開始する。日本美術界はこれに敏感に反応。名だたる画家はすべて戦争画を描いていたにもかかわらず誰が責任を取るべきかアンケートを取った。
こうしたある日、後輩の画家が藤田を訪ねる。
「どうか先生、皆に代わって一人でその罪を引き受けて下さい。」
画家がGHQから戦争責任を問われることはなかったが、藤田は日本を離れることを決意。
「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。」の言葉を残しニューヨークに旅立つ。以来、日本に帰ることは二度となかった。
ニューヨークに渡った藤田は再び女性画を描き始める。没後50年藤田嗣治展のポスターにもなっている「カフェ」はこの頃の作品。

藤田嗣治 カフェ (ポスター)

◇ 再びパリへ
1950年藤田は再びパリに戻る。1955年日本国籍を捨てフランス国籍を取得。1959年には洗礼を受ける。洗礼名 レオナール・フジタ。
藤田74歳の時、フランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクルの小さな農家をアトリエとし、妻と二人での生活を始める。創作活動を続けるかたわら、日本の浪曲や落語のレコードを楽しむ生活を送る。

◇ 聖堂ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画
79歳の時、ランスの小さな礼拝堂の壁画を描く。藤田初めてのフレスコ画である。フレスコ画はルネサンス時代の技法。壁に漆喰を塗り生乾きの内に素早く描き上げなければならず技術と体力が必要とされる。壁画完成のあと1968年に逝去、享年81歳。
壁画には藤田の自画像も描かれている。藤田最後の自画像である。

絵に対して誠実でひたむきであった藤田嗣治。作品とともにその生き方に深い感銘を受けた。
「絵には生きている魂がある。」…藤田が残した言葉である。

藤田嗣治 自画像 (ポスター)

貴船神社へ吟行 October, 2018

今日は地元の俳句仲間と京都 貴船へ吟行。紅葉には未だ早く、そのせいかそれほどの人混みもなくのんびりと奥の院付近を散策。
お昼は「ひろ文」さんで、豆腐御膳をいただき日本酒で一杯。豆腐はもちろんだが、子持ち鮎が絶品、美味しかった。
先の台風21号の爪痕がなまなましく大きな杉の木が何本も倒れているのは痛々しかった。鞍馬山に抜ける山道も通行止めの状況。
この時期、交通規制がかかっているので車で行くには、京都下鴨警察署に通行許可証を事前申請しておく必要があるなど段取りが大変。

>^_^< 愉しい一日でした。


貴船菊

貴船地方に多く咲くことから、この名前がついたとのことです。一般にはシュウメイギクとして知られますが、貴船に咲いているものは濃いピンク色で八重咲の花…陽を浴びて美しく咲いていました。


貴船神社 奥の院 連理の杉

貴船神社 奥の院 連理の杉

御神木 連理の杉…杉と楓の木が重なっていひとつになっています。

貴船神社 奥の院 相生杉

貴船神社 奥の院 相生杉

二本の杉の大木がぴったりと寄り添うようにそびえ立っています。樹齢千年とのことです。

貴船神社 奥の院 思ひ川

貴船神社 奥の院 思ひ川

奥宮参道の入り口にある「思ひ川」

ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
和泉式部が貴船神社に参拝した折に詠んだという。(後拾遺和歌集)

貴船神社 奥の院 御船形石

貴船神社 奥の院  御船形石

玉依姫御料の黄舟を人目を忌て小石で覆ったという船形の石積。

貴船神社 奥の院


貴船 ひろ文