相国寺 November, 2018

久しぶりの相国寺。近くには京都御所、同志社大学。紅葉が見頃だったが、観光の人もそれほど多くはなく、ゆっくりと紅葉を堪能できた。

相国寺は、金閣寺、銀閣寺をはじめ九十余ヵ寺を数える末寺を有する臨済宗相国寺派の大本山であり、京都五山第二位に位置するお寺。
京都五山とは、室町時代、足利義満が定めた臨済宗の五大寺を言い、南禅寺を別格とし、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が位置する。

法堂の天井には、鳴き龍として知られる狩野光信筆による蟠龍図がある。

方丈

禅宗寺院の住職の居室である方丈。原在中筆の「白象」他、襖絵が見事。

相国寺

相国寺 方丈 杉戸絵
白象 原在中筆

開山塔

開山塔(開山堂)には、開山夢窓国師像が安置されている。

相国寺

相国寺

相国寺

相国寺 開山堂 杉戸絵
芭蕉狗子図 円山応挙筆

相国寺

 

東福寺 November, 2018

慧日山 東福寺

東福寺は臨済宗東福寺派大本山、京都五山第四位の禅寺。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾。東福寺の建設工事は30年以上わたり法堂が完成したのは文永10年(1273年)。現在も25か寺の塔頭を有する大寺院。

東福寺 本堂


通天橋

主要伽藍の北に洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋が架かる。

東福寺 通天橋


開山堂

通天橋を渡ると、開山円爾を祀る開山堂がある。

東福寺 開山堂


三門

応永32年(1425年)に足利義持が再建。現存する禅寺の三門としては日本最古のもので国宝となっている。

東福寺 三門


方丈

方丈を囲んで四方に庭が配されている。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。

東福寺 方丈 庭園

東福寺 方丈 庭園


 

没後50年藤田嗣治展 November, 2018

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

藤田嗣治とその時代

国立京都近代美術館で開催されている「没後50年藤田嗣治展」に行ってきました。
東京美術学校卒業時の作品から晩年を過ごしたフランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクでの作品まで、国内および海外の美術館・個人所蔵の絵画126点が年代別に展示されています。藤田嗣治が生きた時代と共にその作品が鑑賞できる回顧展でした。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

作品リスト | List of Works

  1. Ⅰ 原風景―家族と風景  Primal Landscapes–Family and Surroundings
  2. Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで  Early Paris Day–The First World War
  3. Ⅲ 1920年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿  Self-Portraits and Portraits of the 1920s–Faces of the Times
  4. Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代  The “Milky White Nudes” Era
    Ⅴ 1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア  Artist on the Move–The 1930s in North America, Latin America, and Asia
  5. Ⅵ-1 「歴史」に直面する―二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History–Encounter with the Second “Great War”
  6. Ⅵ-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ  Face to Face with History–The War Paintings
  7. Ⅶ 戦後の20年― 東京・ニューヨーク・パリ  The Last Twenty Years–Tokyo, New York, and Paris
  8. Ⅷ カトリックへの道行き  Path to Catholicism

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~藤田嗣治」NHK

やっと日本において藤田嗣治が多くの人から正当に評価される時代が来たのかもしれない…NHKの番組を見てそう思いました。少し長くなりますが…感想をまじえて要約してみました。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

◇ 誹謗
藤田が亡くなったのは1968年、没後も日本においては、藤田への誹謗が続いていたのを知り驚いた。
「……戦争にでもなると罪の無い人を戦争に駆り立てる絵を描く。そんなことをしておいて敗戦したら国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。こんな者を芸術家と呼べるであろうか。まことに恥ずかしい……」 美術クラブ 1976年
いったい藤田嗣治はどのような時代をどのように生きてきたのだろうか。

◇ 1913年 パリへ
藤田は1886年 東京で誕生。東京美術学校を卒業すると単身パリへ。当時、日本からパリに渡った日本人画家はアカデミーと呼ばれる伝統的美術学校で学ぶのが普通だったが、藤田はキュビズムを提唱するピカソらの刺激を受け独学で絵を学んだという。
その頃、日本の家族に宛てた藤田の手紙にその覚悟が示されている。
「折角この世に生まれて人の真似をしたり俗人を喜ばせたりする様な絵を描いて死んでは天に対してもすまぬこと。何れの真似でもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝になるのである。」

◇ 狂乱の時代と「乳白色の肌」の裸婦像
1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結。その頃パリは「狂乱の時代」と呼ばれる時代。
藤田は、彼の代名詞ともなる「乳白色の肌」の裸婦像を次々にサロンに発表し入選。エコール・ド・パリと呼ばれるモディリアーニ、シャガールらと共に、高い評価を受け時代の寵児となる。
「乳白色の肌」の裸婦像を描くにあたり藤田は浮世絵の技法を取り入れ、肌の質感を出す独自のカンバスを考案していた。
この頃、日本の画壇では藤田を誹謗中傷する声があがっている。
「……芸術家としての真の情熱を忘れひたすら人気とりの為に全力を注ぐ有様。画家の身上は画業以上に態度において決定されるもの。よき芸術を産むことができるはずがない。……熊岡美彦」
酒を飲めない藤田は、一日普通14時間、仕事に励む際は18時間絵筆を持つことを常としていた。日本における誹謗中傷は藤田にとって受け入れがたいものであったことだろう。

◇ 帰国
1929年世界大恐慌とともに「狂乱の時代」は終わる。藤田は新しい絵を模索し世界を旅した後、日本に帰国する。
日本に帰った藤田は巨大な壁画を各地で描き上げている。
藤田は言う。「画家が名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく大衆の為の奉仕も考えなければならない。」

◇ 日中戦争・第二次世界大戦と戦争画
1937年 日中戦争が勃発。軍部は国民の戦意高揚のため戦争画を描くことを名だたる画家に要請する。藤田も日本の画家仲間と共にこれに参加。
戦争画を描くにあたり、藤田はルーブル美術館にあるドラクロアやベラスケスの歴史画を参考にした。写実性に縛られず現実の出来事をより劇的に描くことを念頭にルーブル美術館の偉大な歴史画につらなる傑作を生み出すことを願っていたという。「アッツ島玉砕」等の絵を残す。

◇ ニューヨークへ…「カフェ」
1945年終戦。GHQは占領下の日本に於いて戦争責任の追及を開始する。日本美術界はこれに敏感に反応。名だたる画家はすべて戦争画を描いていたにもかかわらず誰が責任を取るべきかアンケートを取った。
こうしたある日、後輩の画家が藤田を訪ねる。
「どうか先生、皆に代わって一人でその罪を引き受けて下さい。」
画家がGHQから戦争責任を問われることはなかったが、藤田は日本を離れることを決意。
「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。」の言葉を残しニューヨークに旅立つ。以来、日本に帰ることは二度となかった。
ニューヨークに渡った藤田は再び女性画を描き始める。没後50年藤田嗣治展のポスターにもなっている「カフェ」はこの頃の作品。

藤田嗣治 カフェ (ポスター)

◇ 再びパリへ
1950年藤田は再びパリに戻る。1955年日本国籍を捨てフランス国籍を取得。1959年には洗礼を受ける。洗礼名 レオナール・フジタ。
藤田74歳の時、フランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクルの小さな農家をアトリエとし、妻と二人での生活を始める。創作活動を続けるかたわら、日本の浪曲や落語のレコードを楽しむ生活を送る。

◇ 聖堂ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画
79歳の時、ランスの小さな礼拝堂の壁画を描く。藤田初めてのフレスコ画である。フレスコ画はルネサンス時代の技法。壁に漆喰を塗り生乾きの内に素早く描き上げなければならず技術と体力が必要とされる。壁画完成のあと1968年に逝去、享年81歳。
壁画には藤田の自画像も描かれている。藤田最後の自画像である。

絵に対して誠実でひたむきであった藤田嗣治。作品とともにその生き方に深い感銘を受けた。
「絵には生きている魂がある。」…藤田が残した言葉である。

藤田嗣治 自画像 (ポスター)

貴船神社へ吟行 October, 2018

今日は地元の俳句仲間と京都 貴船へ吟行。紅葉には未だ早く、そのせいかそれほどの人混みもなくのんびりと奥の院付近を散策。
お昼は「ひろ文」さんで、豆腐御膳をいただき日本酒で一杯。豆腐はもちろんだが、子持ち鮎が絶品、美味しかった。
先の台風21号の爪痕がなまなましく大きな杉の木が何本も倒れているのは痛々しかった。鞍馬山に抜ける山道も通行止めの状況。
この時期、交通規制がかかっているので車で行くには、京都下鴨警察署に通行許可証を事前申請しておく必要があるなど段取りが大変。

>^_^< 愉しい一日でした。


貴船菊

貴船地方に多く咲くことから、この名前がついたとのことです。一般にはシュウメイギクとして知られますが、貴船に咲いているものは濃いピンク色で八重咲の花…陽を浴びて美しく咲いていました。


貴船神社 奥の院 連理の杉

貴船神社 奥の院 連理の杉

御神木 連理の杉…杉と楓の木が重なっていひとつになっています。

貴船神社 奥の院 相生杉

貴船神社 奥の院 相生杉

二本の杉の大木がぴったりと寄り添うようにそびえ立っています。樹齢千年とのことです。

貴船神社 奥の院 思ひ川

貴船神社 奥の院 思ひ川

奥宮参道の入り口にある「思ひ川」

ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
和泉式部が貴船神社に参拝した折に詠んだという。(後拾遺和歌集)

貴船神社 奥の院 御船形石

貴船神社 奥の院  御船形石

玉依姫御料の黄舟を人目を忌て小石で覆ったという船形の石積。

貴船神社 奥の院


貴船 ひろ文


金剛流 春の能 May, 2018

金剛流 春の能  平成30年5月20日

「金剛流の春の能」を鑑賞。日本の様式美の美しさに圧倒されたあっというまの四時間。
この日の演目は… 能 「隅田川」 - 狂言 「仏師」 - 能 「絃上」
演目が終了したあと、地謡方による附祝言「高砂」も耳に心地よく圧巻。

金剛流
金剛流は能楽シテ方五流派(観世・宝生・金春・喜多・金剛)のひとつで、古くは奈良時代に法隆寺に奉仕した猿楽座の坂戸座を源流とし、五流のうち四流の宗家が東京を本拠地にしている中で、関西に宗家が在住する唯一の流儀であるとのこと。

金剛能楽堂
金剛能楽堂は、かつての室町幕府の「花の御所」の近くに開館。室町時代の旧金剛能楽堂の能舞台がそのまま移築されている。

「金剛流 豊春会 春の能」 演目
能組
能   「隅田川」
狂言  「仏師」
能   「絃上」

隅田川
隅田川の渡し場に、息子を捜して旅する狂女がやって来る。『伊勢物語』に描かれた在原業平の故事に思いをはせ、自らを業平になぞらえて浮かれ戯れる狂女。そんな彼女も乗客に加わり、舟は漕ぎ出してゆく。
対岸に着くまでの間、船頭は去年この地に起こった出来事を乗客たちに語る。それは、都から誘拐されてきた子が、この地で亡くなったという話であった。実は彼女こそ、その子供の母親だったのだ。船頭は彼女をその子の墓へ案内し、追悼の大念仏に加わるよう勧める。その夜、大念仏をおこなっていると、群衆の念仏の声に混じって死んだ子の声が聞こえてきた。やがて塚の内から現れた子の幽霊。わが子を抱きしめようとする母だったが、幽霊はそんな彼女の手をすり抜けると、そのまま消えてしまうのだった。

絃上
藤原師長は、琵琶の名手を求めて唐に旅立つ。旅の途中、須磨の浦で出会った老夫婦に一夜の宿を借りる。師長が宿を借りた塩屋の主の求めに応じて琵琶を弾いていると、突然雨が降り出す。老人が琵琶の心得のある者と気がつき、一曲を所望する。 老夫婦は、琵琶と琴で合奏を始める。師長は「あなたは一体誰なのか」と老夫婦にたずねると、自分たちは村上天皇と梨壷女御であると師長に正体を明かして、かき消すように消えてしまう。
村上天皇の霊が登場し、龍神に命じて琵琶の名器獅子丸を竜宮から持って来させて師長に授ける。師長が琵琶を弾き始めると、八大龍王が助演者として加わり、村上天皇も自ら見事な秘曲を奏で、舞を舞う。

狂言 仏師
在所で持仏堂を建立した田舎者が、そこに安置する御仏を買い求めに京の都へやってくる。なかなか仏師を探せない田舎者の元へ、都の詐欺師が近づき自ら仏師であると偽って、仏の種類・大きさ・値段を交渉して金を騙し取ろうと企てる・・・

皐月の京都府立植物園 July, 2018

こどもの日

昨日は快晴。急に出かけたくなって京都府立植物編園へ。
お昼前に到着したが、すでに駐車場は満車、やっぱり連休。
仕方なく烏丸紫明通りの駐車場に車を止めて、てくてくと再び植物園へ。
薔薇や芍薬の他、初夏の花々を満喫。写生の方、写真を撮る方、お弁当を仲良く食べる家族連れ、仲睦まじいアベック…それぞれに初夏の花を楽しんでいるご様子。
大人にもけっこう楽しいごどもの日でした (#^^#)

哲学の道 March, 2018