トンボ返りで天神さんへ
昨日はオフなのに曇天。突然、思い立って京都へ行くことに…京都は快晴でした。京都御苑に車を止めて、今出川通りをてくてくと歩き北野天神へ。北野天神の御土居(おどい)の紅葉を楽しんできました。御土居は豊臣秀吉が,外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として築いた土塁だそうです。
二時過ぎに帰宅。十一月尽、超特急京の旅でした。
トンボ返りで天神さんへ
昨日はオフなのに曇天。突然、思い立って京都へ行くことに…京都は快晴でした。京都御苑に車を止めて、今出川通りをてくてくと歩き北野天神へ。北野天神の御土居(おどい)の紅葉を楽しんできました。御土居は豊臣秀吉が,外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として築いた土塁だそうです。
二時過ぎに帰宅。十一月尽、超特急京の旅でした。
所用をすませた後、渉成園に寄りました。連休初日ですが界隈に人混みは無く、静かな佇まいの中、初春の草花を愉しめました。
渉成園は、東本願寺の別邸。東本願寺から烏丸通りを東に渡ったところにあります。
渉成園は陶淵明の「帰去来」の一節「園日渉面以成趣・・・園、日に渉って以って趣を成す」から採られた名前です。生垣に枳殻(からたち)が植えられていることから枳殻邸(きこくてい)とも呼ばれています。
庭は、詩仙堂を開いた石川丈山の作と伝えられ、趣のある池泉回遊式庭園となっています。
現在の建物は、蛤御門の変(1864年)で炎上のあと、再建されたものです。
躑躅
ツツジは漢字で「躑躅」と書きますが、躑躅(てきちょく)は「行っては止まる」という意味があるそうです。人を引きとめる美しさからこの漢字を当てるようになったとか、毒性のあるツツジを羊が食べたところ、二、三歩足踏みしてからうずくまってしまったという言われからこの漢字を使うようになったとか、諸説あるようです。
馬酔木(アセビ)
アセビもツツジと同じツツジ科。馬がアセビの葉を食べたところ酔ったようにふらついたということからこの漢字を使うようになったとのこと。
傍花閣のかたわらに一番桜である修善寺寒桜(シュゼンジカンザクラ)が咲いていました。
独り句の推敲をして遅き日を 虚子
愕然としてひるねさめたる一人哉 碧梧桐
トサミズキ
雪柳
水仙
枝垂れ桜
二条城
彼岸の昨日、所用があって京都に行ってきました。そのまま帰るには惜しく、東本願寺渉成園、二条城、京都御苑を散策して帰ることにしました。
二条城の中に入るのは数十年ぶりのこと。コロナウィルスのこともあってか二の丸御殿は閉鎖、本丸御殿は改修中でした。
二の丸庭園、清流園をのんびり散策。啓翁桜がちょうど見ごろでした。城内は混みあうこともなく、淋しくない程度の人混み、これくらいが実はいいのかなぁと思いつつ久しぶりの二条城を愉しみました。
二条城は徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として慶長3年(1603)に築いた城。慶応3年(1867)、徳川慶喜が「大政奉還」の意思を表明したのも二条城でした。
椿も見頃でした >^_^<
懇意にしている方の御招待で、京都の金剛能楽堂「豊春会 春の能」へ行ってきました。
豊嶋弥左衛門襲名の初能ということで、演目は「熊野」「石橋」、狂言は「口真似」でした。
暖かい心遣いを受け、正面一番前の席で観劇させていただきました。優美な「熊野」の舞、それとは対照に豪壮華麗で躍動感に満ちた「石橋」、狂言「口真似」はとても面白く、雅な時間をすごさせていただきました。
観能後、以下のお話をお伺いし、能が益々好きになりました。学んでいきたいと思います >^_^<
「熊野の舞は中の舞です。序の舞・破の舞・・急の舞・他色々ありますが序の舞がいちばん緩やか。一番力がいります。80歳の師が重い唐絹纏い能に耐えることは日頃の訓練も大変なものです。面(おもて)の使い方なども深く見ていくと色々発見がありますよ。上向きは(照り)下向くと翳り(かげり)同じ面でも全く表情がちがいます。色々学んで観るととても奥深いものです。石橋の飛んだり跳ねたりこれは歩数を間違えると怪我のもと。面の目穴はちいさいので視野がすごく狭くよくみえないのです。昨日は迫力がありましたね。若手の方の”お開き”だったようです。」
いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の花や散るらん
時は平氏の全盛期。平宗盛の愛妾熊野(ゆや)のもとに、母の病が重くなったとの手紙が届く。手紙を読んだ熊野は、母の住む遠江の国に戻りたいと宗盛に願う。しかし、宗盛はこの願いを聞き入れず、「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」と清水へ花見の同行を熊野に命ずる。
心ならずも熊野は、酒宴で舞を舞うが、折悪しく村雨が花を散らす。それを見た熊野は、
「いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん」 … と歌を詠む。
宗盛は、この歌に感じ入り、熊野に母の待つ故郷に帰ることを許す。
「東路さして行く道の。やがて休ろう逢坂の。関の戸ざしも心して。明けゆく跡の山見えて。花を見捨つるかりがねの。それは越路われはまた。あずまに帰る名残かな。」
仏跡を巡る旅を続ける寂昭法師は、中国の清涼山(しょうりょうぜん)にある石橋に着く。すると、ひとりの樵夫(きこり)が現れ、「橋の向こうは文殊菩薩の浄土であり、この橋は人が容易に渡れるものではない。ここで待てば奇瑞を見るだろう。」と告げ、姿を消す。
樵夫の言葉通り待っていると、橋の向こうから文殊の使いである獅子が現われる。獅子は、咲き誇る牡丹の花に戯れ、勇壮な獅子舞を披露する。
ランチは、金剛能楽堂近くのフレンチレストランで。
店名の「シャラモン」は、フランスの田舎にある村の名前だそうです。以前から一度行ってみたいと思っていたレストラン。美味しかったです >^_^<
ア ラ シャラモン | à la Chalamont
Tel&Fax : 075-441-0170
〒602-8004 京都市上京区西鷹司町13
良心の碑…「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」
新島襄の旧邸を見学。
外観は何度となく見に行ったことがあったのですが、内部を見せていただくことができる特別公開日に行くのは初めてでした。
この日は、おりしも卒業式。大学のキャンパスはとても華やかでした。
有終館…当初は「書籍館」と呼ばれていた同志社最初の図書館。D.C.グリーンの設計により1887年11月に竣工。図書館の役目を終えた際に、時の海老名弾正第8代同志社総長が「有終館」と名付けました。
クラーク記念館…B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館。
同志社礼拝堂…D.C.グリーンによる設計で、1886年6月に竣工したプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物です。
同志社徽章…正三角形を3つ寄せたもので、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの。知・徳・体の三位一体あるいは調和をめざす同志社の教育理念をあらわしています。考案者は湯浅半月。
スクールカラーは、ロイヤル・パープルと白の2色。創立者新島襄の母校、アーモスト大学のスクールカラーでもあります。
1875年11月29日、新島襄は、高松邸(高松保実所有)の半分を賃借し、生徒8名で同志社英学校を開校しました。
翌年、同志社英学校は旧薩摩藩邸跡地に移ります。これに合わせ、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。和に洋を取り入れた大変モダンなつくりの邸宅です。
新島は、亡くなるまでの十年間、妻の新島八重さんとこの邸宅で過ごしました。また、新島は、年老いた両親のために附属屋を建築しています。附属屋は、江戸藩邸にあった住居に準じた和風の造りとなっています。
老朽化から一階部分のみの見学が許されていました。
新島旧邸 外観
新島旧邸 書斎…整理整頓好きな新島の書斎はいつも整然としていました。
蔵書のほとんどは洋書。同志社の学生たちは図書室のように自由に利用していたということです。
応接間…当時としては画期的なセントラル・ヒーティングが設置されていました。
応接間には、勝海舟による六然の書があります。
食堂…新島は洋食が好みで、洋風の料理に使う野菜などは庭で栽培していたということです。
新島八重の茶室…新島の死後、八重は1階洋室を改造して茶室にしました。
茶室の名前は「寂中庵」。八重の茶名は新島宗竹、裏千家13代家元千宗室に師事していました。
洋式トイレ…板張りの腰掛式トイレ。日本で初めての洋式トイレと伺いました。
新島 襄の墓
新島 襄は東山若王子山頂にある同志社墓地に埋葬されています。ここには、新島をはじめ、妻新島八重や山本覚馬、同志社関係の宣教師たちが眠っています。
新島は、明治23年(1890年)1月23日に神奈川県大磯で天に召されました。享年46歳。新島の遺体が京都に運ばれたのは4日後の1月27日。同志社チャペルでの葬儀が終わると、生徒たちが代わる代わる新島の棺を担ぎ、東山若王子まで運びました。