~ 西本願寺・島原・東寺・勧智院~
鞄の修繕をお願いに京都駅近くにある鞄屋さんへ行ってきたのですが、このまま帰るのもなんだしと界隈を散策しました。
七条通りを西へ進み、四十年ぶりに修復されたという西本願寺の唐門へ。日が暮れるのを忘れて見とれてしまうほどの美しさから「日暮門」の別名がある唐門、豪華絢爛でした。
さらに西へ進み島原へ。島原大門を抜け、少し足をすすて右に曲がったところに、元禄年間(1688~1704)創業の置屋、輪違屋(わちがいや)があります。輪違屋より大門の通りに戻り、さらにまっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。
けっこう歩きましたが、南に下り、東寺をお参りして帰ることにしました。真言宗総本山 教主護国寺 東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院。青空に五重塔が映え、いい姿でした。
鞄の修繕ができたら電話をいただけるということなので、次回の京都をたのしみに帰りました。
西本願寺
島原
島原大門
京都の花街 島原跡地。寛永八年(1641)、六条三筋町より現在の朱雀野の地に移転することになりました。その時の移転騒動が、島原の乱(1637)を思わせたところから「島原」と呼ばれるようになったということです。「島原」の正式名称は「西新屋敷」。遊宴をすることにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで江戸中期には島原俳壇が形成されていました。
輪違屋 (わちがいや)
大門より少し足をすすめ右に曲がったところに輪違屋があります。輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた元禄年間(1688~1704)創業の置屋。現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたものです。内部の拝観は出来ないようです。
角屋
輪違屋より大門の通りに戻り、まっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、寛永18年(1641)、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。
文久三年(1863)9月10日、新選組 芹沢鴨は、この角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席したその夜、屯所で暗殺されました。
真言宗総本山 教主護国寺 東寺
東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院です。
桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇より東寺を託されたのは、唐で密教を学んで帰国した弘法大師 空海でした。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、
一の膳、二の膳、お茶が出されているということです。
真言宗総本山 別格本山 観智院
東寺の北大門を出ると北総門まで参道が続きます。この参道は、櫛笥小路(くしげこうじ)といい、平安時代以来そのままの幅で残っている唯一の小路だそうです。この櫛笥小路の東側に観智院があります。
観智院は、密教教学の勧学院(僧侶のための教育機関)。所蔵する密教の聖教類は1万5千件以上にのぼります。
客殿は、上段の間、次の間、羅城の間、暗の間、使者の間があり、上段の間では、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」を見ることができました。
客殿の東側にあるのは本堂です。本尊は、五大虚空蔵菩薩。五尊は蓮台に結跏趺坐(けっかふざ)し、獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅(かるら)という鳥獣の上に鎮座しています。
愛染明王の梵名は、ラーガといい、赤い色という意味です。人々を招き寄せて煩悩即菩提の境地に入らせる仏さま。煩悩即菩提とは、煩悩を離れて別に悟りはないという密教の教えです。