今年も無事めでたく千秋楽
ゆずり葉にのせた鰯、自然薯蕎麦、埋み豆腐…手作りのおもてなしで、気心知れた仲間との納会。
いろいろあったと言えばあった一年でしたが、何とか無事に今年を終えることができ感謝です。
年惜しむかはたれ時の豆腐売り ことは
今年も無事めでたく千秋楽
ゆずり葉にのせた鰯、自然薯蕎麦、埋み豆腐…手作りのおもてなしで、気心知れた仲間との納会。
いろいろあったと言えばあった一年でしたが、何とか無事に今年を終えることができ感謝です。
年惜しむかはたれ時の豆腐売り ことは
久しぶりに工作…(#^^#)
干していたコキアがよく乾いたので、麻の紐で柄をつくり、手帚が完成。
そろそろ冬支度 >^_^<
調べてみましたら…柿に含まれる成分がいい効用をもっているようです。
風邪予防に、二日酔いに…
ビタミンC…免疫力を高めてくれる。
ビタミンA…粘膜を保護してくれる。
ポリフェノール…抗酸化作用がある。
フルクトース…アルコールを分解してくれる。
ペクチン…血液中のアルコール濃度を下げてくれる。
タンニン…胃の粘膜を引き締めてくれる。
羽黒トンボに再び出会った朝散歩。休む時は四枚の羽をゆっくり閉じたり広げたり。蝶のようにひらひらと飛んでいました。
神様トンボと呼んでいる地域もあるようです >^_^<
小倉の家に住み侍りけるころ、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心も得でまかりすぎて、またの日山吹の心得ざりしよし言ひにをこせて侍りける返しに言ひつかはしける。
兼明親王 後拾遺集
湯浅常山の「常山紀談」に、この和歌に関する太田道灌の逸話があります。
鷹狩に行ったある日、雨に見舞われた道灌は、蓑を借りようと近くの小屋に行きます。しかし、小屋の中から出てきた娘は、蓑ではなく山吹の花を道灌に渡します。道灌は立腹し、その場を後にします。
後で家臣から、「それは、貧乏なためお貸しする蓑はないのです。」ということを、山吹の花に託して告げたかったのでしょうと諭されます。
自らの無学を恥じた道灌は、和歌に精進するようになり、文武両道を極めたということです。
良心の碑…「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」
新島襄の旧邸を見学。
外観は何度となく見に行ったことがあったのですが、内部を見せていただくことができる特別公開日に行くのは初めてでした。
この日は、おりしも卒業式。大学のキャンパスはとても華やかでした。
有終館…当初は「書籍館」と呼ばれていた同志社最初の図書館。D.C.グリーンの設計により1887年11月に竣工。図書館の役目を終えた際に、時の海老名弾正第8代同志社総長が「有終館」と名付けました。
クラーク記念館…B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館。
同志社礼拝堂…D.C.グリーンによる設計で、1886年6月に竣工したプロテスタントのレンガ造チャペルとしては日本に現存する最古の建物です。
同志社徽章…正三角形を3つ寄せたもので、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの。知・徳・体の三位一体あるいは調和をめざす同志社の教育理念をあらわしています。考案者は湯浅半月。
スクールカラーは、ロイヤル・パープルと白の2色。創立者新島襄の母校、アーモスト大学のスクールカラーでもあります。
1875年11月29日、新島襄は、高松邸(高松保実所有)の半分を賃借し、生徒8名で同志社英学校を開校しました。
翌年、同志社英学校は旧薩摩藩邸跡地に移ります。これに合わせ、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。和に洋を取り入れた大変モダンなつくりの邸宅です。
新島は、亡くなるまでの十年間、妻の新島八重さんとこの邸宅で過ごしました。また、新島は、年老いた両親のために附属屋を建築しています。附属屋は、江戸藩邸にあった住居に準じた和風の造りとなっています。
老朽化から一階部分のみの見学が許されていました。
新島旧邸 外観
新島旧邸 書斎…整理整頓好きな新島の書斎はいつも整然としていました。
蔵書のほとんどは洋書。同志社の学生たちは図書室のように自由に利用していたということです。
応接間…当時としては画期的なセントラル・ヒーティングが設置されていました。
応接間には、勝海舟による六然の書があります。
食堂…新島は洋食が好みで、洋風の料理に使う野菜などは庭で栽培していたということです。
新島八重の茶室…新島の死後、八重は1階洋室を改造して茶室にしました。
茶室の名前は「寂中庵」。八重の茶名は新島宗竹、裏千家13代家元千宗室に師事していました。
洋式トイレ…板張りの腰掛式トイレ。日本で初めての洋式トイレと伺いました。
新島 襄の墓
新島 襄は東山若王子山頂にある同志社墓地に埋葬されています。ここには、新島をはじめ、妻新島八重や山本覚馬、同志社関係の宣教師たちが眠っています。
新島は、明治23年(1890年)1月23日に神奈川県大磯で天に召されました。享年46歳。新島の遺体が京都に運ばれたのは4日後の1月27日。同志社チャペルでの葬儀が終わると、生徒たちが代わる代わる新島の棺を担ぎ、東山若王子まで運びました。