東福寺 November, 2018

慧日山 東福寺

東福寺は臨済宗東福寺派大本山、京都五山第四位の禅寺。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は円爾。東福寺の建設工事は30年以上わたり法堂が完成したのは文永10年(1273年)。現在も25か寺の塔頭を有する大寺院。

東福寺 本堂


通天橋

主要伽藍の北に洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋が架かる。

東福寺 通天橋

開山堂

通天橋を渡ると、開山円爾を祀る開山堂がある。

東福寺 開山堂

三門

応永32年(1425年)に足利義持が再建。現存する禅寺の三門としては日本最古のもので国宝となっている。

東福寺 三門

方丈

方丈を囲んで四方に庭が配されている。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名されている。

東福寺 方丈 庭園
東福寺 方丈 庭園

 

没後50年藤田嗣治展 November, 2018

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

藤田嗣治とその時代

国立京都近代美術館で開催されている「没後50年藤田嗣治展」に行ってきました。
東京美術学校卒業時の作品から晩年を過ごしたフランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクでの作品まで、国内および海外の美術館・個人所蔵の絵画126点が年代別に展示されています。藤田嗣治が生きた時代と共にその作品が鑑賞できる回顧展でした。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

作品リスト | List of Works

  1. Ⅰ 原風景―家族と風景  Primal Landscapes–Family and Surroundings
  2. Ⅱ はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで  Early Paris Day–The First World War
  3. Ⅲ 1920年代の自画像と肖像―「時代」をまとうひとの姿  Self-Portraits and Portraits of the 1920s–Faces of the Times
  4. Ⅳ 「乳白色の裸婦」の時代  The “Milky White Nudes” Era
    Ⅴ 1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア  Artist on the Move–The 1930s in North America, Latin America, and Asia
  5. Ⅵ-1 「歴史」に直面する―二度目の「大戦」との遭遇 Face to Face with History–Encounter with the Second “Great War”
  6. Ⅵ-2 「歴史」に直面する―作戦記録画へ  Face to Face with History–The War Paintings
  7. Ⅶ 戦後の20年― 東京・ニューヨーク・パリ  The Last Twenty Years–Tokyo, New York, and Paris
  8. Ⅷ カトリックへの道行き  Path to Catholicism
没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

「よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~藤田嗣治」NHK

やっと日本において藤田嗣治が多くの人から正当に評価される時代が来たのかもしれない…NHKの番組を見てそう思いました。少し長くなりますが…感想をまじえて要約してみました。

没後50年藤田嗣治展
京都国立近代美術館

◇ 誹謗
藤田が亡くなったのは1968年、没後も日本においては、藤田への誹謗が続いていたのを知り驚いた。
「……戦争にでもなると罪の無い人を戦争に駆り立てる絵を描く。そんなことをしておいて敗戦したら国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。こんな者を芸術家と呼べるであろうか。まことに恥ずかしい……」 美術クラブ 1976年
いったい藤田嗣治はどのような時代をどのように生きてきたのだろうか。

◇ 1913年 パリへ
藤田は1886年 東京で誕生。東京美術学校を卒業すると単身パリへ。当時、日本からパリに渡った日本人画家はアカデミーと呼ばれる伝統的美術学校で学ぶのが普通だったが、藤田はキュビズムを提唱するピカソらの刺激を受け独学で絵を学んだという。
その頃、日本の家族に宛てた藤田の手紙にその覚悟が示されている。
「折角この世に生まれて人の真似をしたり俗人を喜ばせたりする様な絵を描いて死んでは天に対してもすまぬこと。何れの真似でもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝になるのである。」

◇ 狂乱の時代と「乳白色の肌」の裸婦像
1914年に勃発した第一次世界大戦が1918年に終結。その頃パリは「狂乱の時代」と呼ばれる時代。
藤田は、彼の代名詞ともなる「乳白色の肌」の裸婦像を次々にサロンに発表し入選。エコール・ド・パリと呼ばれるモディリアーニ、シャガールらと共に、高い評価を受け時代の寵児となる。
「乳白色の肌」の裸婦像を描くにあたり藤田は浮世絵の技法を取り入れ、肌の質感を出す独自のカンバスを考案していた。
この頃、日本の画壇では藤田を誹謗中傷する声があがっている。
「……芸術家としての真の情熱を忘れひたすら人気とりの為に全力を注ぐ有様。画家の身上は画業以上に態度において決定されるもの。よき芸術を産むことができるはずがない。……熊岡美彦」
酒を飲めない藤田は、一日普通14時間、仕事に励む際は18時間絵筆を持つことを常としていた。日本における誹謗中傷は藤田にとって受け入れがたいものであったことだろう。

◇ 帰国
1929年世界大恐慌とともに「狂乱の時代」は終わる。藤田は新しい絵を模索し世界を旅した後、日本に帰国する。
日本に帰った藤田は巨大な壁画を各地で描き上げている。
藤田は言う。「画家が名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく大衆の為の奉仕も考えなければならない。」

◇ 日中戦争・第二次世界大戦と戦争画
1937年 日中戦争が勃発。軍部は国民の戦意高揚のため戦争画を描くことを名だたる画家に要請する。藤田も日本の画家仲間と共にこれに参加。
戦争画を描くにあたり、藤田はルーブル美術館にあるドラクロアやベラスケスの歴史画を参考にした。写実性に縛られず現実の出来事をより劇的に描くことを念頭にルーブル美術館の偉大な歴史画につらなる傑作を生み出すことを願っていたという。「アッツ島玉砕」等の絵を残す。

◇ ニューヨークへ…「カフェ」
1945年終戦。GHQは占領下の日本に於いて戦争責任の追及を開始する。日本美術界はこれに敏感に反応。名だたる画家はすべて戦争画を描いていたにもかかわらず誰が責任を取るべきかアンケートを取った。
こうしたある日、後輩の画家が藤田を訪ねる。
「どうか先生、皆に代わって一人でその罪を引き受けて下さい。」
画家がGHQから戦争責任を問われることはなかったが、藤田は日本を離れることを決意。
「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。」の言葉を残しニューヨークに旅立つ。以来、日本に帰ることは二度となかった。
ニューヨークに渡った藤田は再び女性画を描き始める。没後50年藤田嗣治展のポスターにもなっている「カフェ」はこの頃の作品。

藤田嗣治 カフェ (ポスター)

◇ 再びパリへ
1950年藤田は再びパリに戻る。1955年日本国籍を捨てフランス国籍を取得。1959年には洗礼を受ける。洗礼名 レオナール・フジタ。
藤田74歳の時、フランスの田舎町ヴィリエ・デ・バクルの小さな農家をアトリエとし、妻と二人での生活を始める。創作活動を続けるかたわら、日本の浪曲や落語のレコードを楽しむ生活を送る。

◇ 聖堂ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁画
79歳の時、ランスの小さな礼拝堂の壁画を描く。藤田初めてのフレスコ画である。フレスコ画はルネサンス時代の技法。壁に漆喰を塗り生乾きの内に素早く描き上げなければならず技術と体力が必要とされる。壁画完成のあと1968年に逝去、享年81歳。
壁画には藤田の自画像も描かれている。藤田最後の自画像である。

絵に対して誠実でひたむきであった藤田嗣治。作品とともにその生き方に深い感銘を受けた。
「絵には生きている魂がある。」…藤田が残した言葉である。

藤田嗣治 自画像 (ポスター)

若狭の古刹 棡山 明通寺(真言宗御室派) November, 2018

棡山明通寺 三重塔

今日はオフ。しかもポカポカといいお天気だったので、明通寺へお参りに行ってきました。庭はすっかり紅葉。本堂でご住職中嶌哲演さんのお話をお聞きしました。凛とした響きのあるお声は相変わらず。心地よいひと時でした。

明通寺は、大同元年(806年)征夷大将軍坂上田村麻呂が創建。質実剛健な造りの本堂と三重塔は鎌倉時代(1258年)に再建され、国宝となっています。本尊は薬師如来坐像、秘仏とされていましたが前御住職の御判断で、いつでも拝顔してお参りすることができるようになったとのこと。
若狭には、真言宗、天台宗の古刹がたくさんありますが、明通寺は中でも大好きなお寺です。

 

梅丈岳山頂公園 と 常神半島 October, 2018

秋晴れのとっても気持ちのいい一日。
秋の薔薇が見頃ということを聞き、梅丈岳山頂公園の薔薇園へ行ってきました。
レインボーラインをドライブするのは本当に久しぶり。
通行料 通常1000円のところ、この期間は半額となっていました。駐車場から山頂まではリフトを利用。
よく手入れされていて、美しい薔薇に出会えました >^_^<
山頂からが臨む日本海と三方五湖もとても綺麗。

少し時間があったので、そのまま足を伸ばし、常神半島へ。樹齢千年というソテツを見てきました。

薔薇園

日本海と三方五湖

常神半島

常神半島のソテツ

ソテツ
ソテツ
ソテツ
ソテツ

貴船神社へ吟行 October, 2018

今日は地元の俳句仲間と京都 貴船へ吟行。紅葉には未だ早く、そのせいかそれほどの人混みもなくのんびりと奥の院付近を散策。
お昼は「ひろ文」さんで、豆腐御膳をいただき日本酒で一杯。豆腐はもちろんだが、子持ち鮎が絶品、美味しかった。
先の台風21号の爪痕がなまなましく大きな杉の木が何本も倒れているのは痛々しかった。鞍馬山に抜ける山道も通行止めの状況。
この時期、交通規制がかかっているので車で行くには、京都下鴨警察署に通行許可証を事前申請しておく必要があるなど段取りが大変。

>^_^< 愉しい一日でした。


貴船菊

貴船地方に多く咲くことから、この名前がついたとのことです。一般にはシュウメイギクとして知られますが、貴船に咲いているものは濃いピンク色で八重咲の花…陽を浴びて美しく咲いていました。


貴船神社 奥の院 連理の杉

貴船神社 奥の院 連理の杉

御神木 連理の杉…杉と楓の木が重なっていひとつになっています。

貴船神社 奥の院 相生杉

貴船神社 奥の院 相生杉

二本の杉の大木がぴったりと寄り添うようにそびえ立っています。樹齢千年とのことです。

貴船神社 奥の院 思ひ川

貴船神社 奥の院 思ひ川

奥宮参道の入り口にある「思ひ川」

ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂(たま)かとぞみる
和泉式部が貴船神社に参拝した折に詠んだという。(後拾遺和歌集)

貴船神社 奥の院 御船形石

貴船神社 奥の院  御船形石

玉依姫御料の黄舟を人目を忌て小石で覆ったという船形の石積。

貴船神社 奥の院


貴船 ひろ文


敦賀市 中池見湿地 September, 2018

今日は三連休最後の日。敦賀市の中池見湿地へ行ってきました。
稲が稲木に干され、すっかり秋の景色。
歩いていると向こうのほうから手を振る女性が…誰だろうと思ったら昔の仕事仲間。”Fancy meeting you here!”

昔ながらの稲作がここでは今でも…懐かしい風景です。


ヤマハギ

ヤマハギ…美しいピンク色に。

ヤブツルアズキ

ヤブツルアズキが田んぼの脇に…アズキの原種だとか。

オモダカ

綺麗ですが稲にとっては害草。稲刈された水田にちゃっかり咲いていました。

ミズトラノオ

ミズトラノオ…紫が美しい、ここでしかなかなか見ることができない花です。

ツリガネニンジン

ツリガネニンジン…紫が綺麗です。

ウメモドキ

ウメモドキ…いい紅色に。

サワシロギク

サワシロギク

ガマ

ガマ…フランクフルトソーセージみたい。

ヤマアジサイ

ヤマアジサイ…ひっそりと咲いていました。

サワヒヨドリ

湿地帯ならではのサワヒヨドリ

ススキ

ここのススキは色も姿も美しいと、いつも思います。

キツネノマゴ

キツネノマゴ…本当に小さい花で写真を撮るのに一苦労。

タデ

タデ…こうやって見るとなかなか素敵です。

ゲンノショウコ

ゲンノショウコ…生薬のひとつ。「実際に効く証拠」という意味だとか。


 

野坂茶屋

敦賀市の野坂茶屋でランチ
野坂いこいの森の近くにあるログハウス風のお店。お店の周りは野草がたくさん栽培されていて和みます。
山中に立地したお店なのに満席の状態でした。


アベリア

アベリア

ホテイアオイ

ホテイアオイ


 

若狭路 秋の野草 October, 2018

小雨の中、大きめの傘をもって近くの公園へ・・・ >^_^<
秋の野花を探しながら小一時間ほどぶらぶら散歩。とにかく小さい花が多いので、落とし物を探すよう。
雨に濡れて草花が綺麗でした。

エノコログサ、ミズヒキ、ボタンヅル、タデ、秋海棠

天徳寺八十八ケ所

天徳寺にある瓜割名水公園を歩いていくと、八十八体の石仏を祀るお堂があります。これは、弘法大師が四国八十八カ所を模した霊場を開くために、佐渡の石工に刻ませたものと伝えられています。この八十八体の石仏の前の地面には、丸い穴をあけて四国八十八カ所の霊場から運んだ土を入れてあるということです。

独鈷(どっこ)

石段を昇っていくと門番のような石象に迎えられます。この石象が左手にかついでいるのは堅固であらゆるものを摧破する武器である独鈷(とっこ)。
独鈷は、煩悩を破る悟りの智慧を象徴とする密教の法具であり、この武器を持った神(執金剛神)がいつも影のように仏につき従い,仏を守護しているとのことです。

水上 勉 「若狭路」より

枝の混んだ杉、檜の木もれ陽の中で、静かに正座しておられる石仏をみていると、暗い奥山だけに幽邃である。天徳寺はまた湧き水で名高い水の森があり、この石仏群のしじまへ水音はきこえてくる。若狭はやはり仏の国だと思う。


ウマノアシガタ、ゲンノショウコ、ヒメキンミズヒキ、ツユクサ

釣鐘人参 ツリガネニンジン

ツリガネニンジン
形がお寺の梵鐘似ていることと根を朝鮮人参に見立てことから釣鐘人参の名がついたようです。英名は「Lady bells」


雪見花

雪見花
スズムシバナとよく似ています。たぶん親戚 (*^^*)


イタドリの雄花、ヤブラン、サンゴジュ

山萩 ヤマハギ

山萩 ヤマハギ
「萩」というのはマメ科ハギ属の落葉低木の総称であるらしく、これはヤマハギ。


アキチョウジ

アキチョウジ…秋に咲き、花の形が丁の字に似ているので、この名前がついということです。


ツワブキ

石蕗(ツワブキ)


 

花はす公園 今庄 July, 2018

蓮の花が見たくなって、敦賀から北国街道を通って今庄の花はす公園へ。北陸自動車道ができてからほとんど利用したことがない道だったので景色を楽しみながらスロー運転。お昼前に到着。小一時間、蓮の花を見て回って茶店でおろし蕎麦を、そしてまた小一時間ほど蓮めぐり。ここまで来たのでと、夜叉が池に寄ってから帰宅。夜叉が池は泉鏡花の戯曲「夜叉が池」の舞台となっているところ。けっこう楽しめたオフの日でした。
July 12th, 2018

偶然にも今日7月12日は、二十四節季七十二候の蓮始開(はすはじめてひらく)。泥より出でて泥に染まらぬ蓮の花…いい日の蓮見となりました >^_^<

坂東玉三郎 「越路吹雪を歌う」 June, 2018

実生窯

過日、越前陶芸村へ坂東玉三郎さんのコンサートに。
開演まで少し時間があったので、越前焼のブースを覗く。越前焼は表面が赤褐色の焼き上がりものが常なのだが、茶色の土に白土を掛けた粉引の徳利を発見。実生窯の作品。一輪挿しに、よさそうだったので、衝動買い。

さて、コンサートのオープニングの曲は「バラ色の人生」。
今回の公演は日生劇場での「越路吹雪 三十七回忌追悼公演」に玉三郎さんがゲスト出演したことがきっかけで、持ち上がった企画とのこと。
玉三郎さんは若い頃から越路さんのファンで、「いったいこの方は、普段どのような生活を送っていられるのだろう。」という好奇心に任せて、越路さんの一挙手一投足を舞台からレコードから学び続けていたというようなことをおっしゃっていた。

「しつらえのよい舞台にしましょうね。」が、公演スタッフへの言葉だったらしい。言葉通り、美術、照明、音楽、音響、照明、ステージングのすべにおいて、洗練された美しさのある舞台だった。

地方公演なのに、生楽器のみのオーケストラ。「谷間に三つの鐘が鳴る」「水に流して」「愛の賛歌」「道化をよこして」「枯葉」「ろくでなし」等々…懐かしい歌を愉しめた。この日のゲストは、真琴つばささん、姿月あさとさん。

June 30th, 2018