開高 健・山口 瞳

「人間」らしくやりたいナ トリスを飲んで 「人間」らしくやりたいナ 「人間」なんだからなナ 開高 健
トリスを飲んでHawaiiへ行こう! 山口 瞳
寿屋(現 サントリー)宣伝部の社員だったお二人が書いたサントリーの社史です。戦前編は山口瞳、戦後編は開高健が担当し、執筆されたのは昭和四十四年(1969)です。
サントリー山崎蒸留所のショップでこの本を見つけ買ったのですが、面白くて一気に読み終えてしまいました。
昭和三十三年(1958)、宣伝部東京支店でPR誌「洋酒天国」の編集長をしていた開高健が現地採用したのが山口瞳でした。当時、大阪に本社のある寿屋が、東京で社員を入社させるとき現地採用と言っていたとのこと、社員の大半は大阪人で、大阪一色の会社だったようです。この年、開高建は芥川賞を受賞。昭和三十八年(1963)に、山口瞳が直木賞を受賞。イラストレーター柳原良平他、宣伝部には多士済々が揃っていました。
あとがきで山口瞳はこのように述べています。「サントリーの社史を書くということは 鳥井信治郎の伝記を書くことである。・・・そのためには、社内の熱気を理解してもらわなければならない。・・・私が念じたのは、当代にもっとも稀薄になっていると思われる『何ものか』を、いまの若いサラリーマンに理解してもらいたいという一事であった」
赤玉ポートワインのヒットにより、鳥井信治郎が株式会社壽屋を設立したのは大正十年(1921)。甘口の赤玉ポートワインは人気を博し、国内ワイン市場の60%を占めたということです。
これに安住せず、鳥井信治郎はウィスキーの時代が来るとの信念で、ウィスキーの製造販売にとりかかります。
技術者として破格の給料で雇い入れたのが日本のウィスキーの父と言われる竹鶴政孝。大正十三年(1924)に山崎蒸留所を竣工し、蒸留を開始します。
昭和四年(1929)、昭和五年(1930)に、サントリーウヰスキー(白札)・(赤札)を発売しますが不振。昭和九年(1934)、十年の契約を終え竹鶴政孝は壽屋を退社、ニッカウヰスキーを創業します。
昭和十二年(1937)、 「サントリーウイスキー12年(サントリー角瓶)」を発売。この製品の成功により、サントリーのウィスキー事業はやっと軌道に乗ります。
寿屋二代目社長は、鳥井信治郎の二男佐治敬三。昭和三十六年(1961)、社長に就任。この年、佐治敬三は鳥井信治郎に、数年間にわたり準備をしていたビール製造の決意と企画を打ち明けます。父の返事は「・・・やってみなはれ」
昭和三十七年(1962)鳥井信治郎逝去。昭和三十八年(1963)、社名が「壽屋」から「サントリー」に変更されます。
当時、日本のビール業界は、キリン、サッポロ、アサヒの三社が寡占しており、サントリーのビール製造の準備は社内でも極秘のうちにすすめられました。佐治がめざしたのは新しい味のビールでした。
三社が寡占する日本のビール業界にあって、美味しければ売れるというものではなく、販路を築くのは並大抵のことではなかったようです。
昭和37年(1962)、佐治敬三は、アサヒビールの社長 山本為三郎を訪ねています。サントリービールの発売の際には、アサヒビールの販売網にのせてもらえないかとの願いでした。
山本為三郎は「一切の協力を惜しみません」と快諾しました。山本為三郎は「大山崎山荘」の保存再生に尽力した人物でもあり、山荘は「アサヒビール大山崎山荘美術館」として現在に至っています。
それでも、新規ビール事業は困難を極め、ようやく軌道に乗ったのは昭和四十二年(1967)のことでした。
「やってみなはれ やってみなわからしまへんで」
鳥井信治郎、佐治敬三他、登場する人物の生き方に熱いものを感じた一冊でした。