花妖譚 司馬遼太郎

本名 福田定一の名で書かれ,華道 未生流の月刊誌「未生」に掲載された十編。
芥子・牡丹・沈丁花・水仙など十の花を題材に,中国・日本・モンゴル・古代ギリシャの逸話を語る幻想的な物語。
流麗で格調高い筆致は見事で,花のおりなす不思議な世界にしばし身を置くことができた。花に詳しく,古今東西の歴史に関する知識の深さは,流石というほかない。

カティンの森

カティンの森 アンジェイ・ワイダ監督作品

「カティンの森事件」を扱ったポーランド映画をアマゾン・プライムで観ました。
「カティンの森事件」とは,第二次世界大戦中,約22,000人のポーランド人が,ソビエト連邦の兵士によって虐殺された事件のことです。
アンジェイ・ワイダ監督自身の父も同事件の犠牲者の一人でした。構想50年,製作に17年をかけた作品。撮影は『戦場のピアニスト』で知られるポーランド出身のパヴェウ・エデルマン。ワルシャワでの劇場公開は2007年9月。

「カティンの森事件」
1939年,ドイツは「ドイツ・ポーランド不可侵条約」を破棄しポーランドに侵攻。同年,ソ連も「ソ連・ポーランド不可侵条約」を破棄し,旧ポーランド東部地域を侵略・併合。多数のポーランド人捕虜をソ連領内に連れさり,その多くを虐殺しました。
1941年,ドイツが,「独ソ不可侵条約」を破棄し,ソ連に侵攻。カティンにおいて多くのポーランド人が虐殺された現場を発見し,これを公表しますが,ソ連は虐殺を行ったのは,ドイツ軍であると主張します。
1945年,ドイツは敗北。第二次世界大戦が終了します。ソ連は,親ソ派のポーランド人共産主義者をトップに据え,ソ連の衛星国とも言うべき「ポーランド人民共和国」をつくります。以後,「カティンの事件」はドイツ軍が行ったものとされ,ポーランド国内において事件の真相に触れることはタブーとなります。
1987年,ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任。ソ連とポーランドによる「カティンの森事件」に関する合同調査が開始されます。
1990年,ソ連は事件の非を認め,公式にポーランドに謝罪。事件が起こってから50年を経て,やっとその真相が明らかにされました。

映画はドキュメンタリーを観るかのよう。真実を語るには,正義を行うには,自分の生命を賭す覚悟がいる社会と時代が淡々と描かれます。カティンの森の映像は凄惨でした。

句集「若狭」 遠藤若狭男

「来春、会おう」と若狭男さんから葉書をいただいたのは、四年前の丁度今ごろ。
葉書には、句が二つ添えられていました。

ふるさとは歩くがたのし草ひばり
海を見に春の若狭へ帰りたし

葉書には「第六句集のタイトルは『若狭』と決めています」とも書いてありましたが、「来春」をまたず若狭男さんの訃報を知ったのはこの年の十二月のことでした。

第六句集はどうなるだろうと思う数年が過ぎ、昨年五月、角川書店より「句集 若狭」が発刊されました。歌人でもある奥様の大谷和子さんの編纂です。「最後の贈りもの」と題されたあとがきの一部を紹介します。

・・・あえて「遺句集」としなかったのは、生前の若狭男が句集刊行を予定していたことと、句集内容のある程度の構成がなされていた、ということからです。しかし、句数を減らすことだけはどうしてもできませんでした。・・・おそらく若狭男本人ならば、ここから厳しい編集作業ののちに取捨選択し句数を絞り、厳選された「若狭」となっていたこでしょう。「玉石混淆」という言葉も一瞬脳裡をかすめました。けれどこれらの句は、晩年の若狭男の一瞬一瞬を切り取った大切な作品であり、さらにこの時期は自身が主辛となり「若狭」を創刊した時期でもあります。・・・しかし、これまでの句集によって形成された端正なイメージの若狭男俳句とは異なり、混沌ゆえの素のままの若狭男俳句の魅力に出会える可能性もあるのでは……とも思っています。

「Ⅲ 微苦笑」・「Ⅳ 言霊」の章は、句の他に折々に綴られた若狭男の文章も掲載されており、若狭男さんに思いを馳せながら、読み進めることができました。

われの吹くクラリネットに蝶の飛ぶ
青き踏むときをり死後のこと思ひ
うるはしき日々こそ待ため涅槃西風
麦秋やはるかに日本海の青
ふるさとは歩くがたのし草ひばり
わが死後のわれかも知れず秋の風
一月の仰げばりんと若狭富士

ドライブ・マイ・カー

話題の映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。原作は村上春樹さん。原作の映画化というよりは、原作を土台とした物語といった印象。上映時間は三時間に及びますが、緊張の糸が切れない筋立てとタイトなつくり。カンヌ国際映画祭 脚本賞受賞というのも頷けます。

物語の主人公 家福(西島秀俊)は、俳優であり演出家。映画の冒頭場面ではサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」、そして、アントン・チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の舞台稽古が核となり物語は進んでいきます。
映画の終盤 「ワーニャ伯父さん」舞台の場面、ソーニャの言葉が、本作「ドライブ・マイ・カー」のメッセージとオーバーラップするかのようです。切なく、喪失感にとらわれてしまっても人は生きていかなければならないというメッセージ。
主人公 家福の愛車は、スゥエーデンの名車 SAABサーブ900。素敵な舞台回しになっています。映画前半部の家福(西島秀俊)と妻(霧島れいか)が語り合う言葉は、魅入られてしまうような不思議な響き。ドライバー(三浦透子)のことは、ここでは触れないでおきましょう。観てのお楽しみ。
余計なお世話かもしれませんが、お独りで鑑賞されるのがいいように思った映画でした。

アントン・チェーホフ「ワーニャ伯父さん」第4幕 ソーニャがワーニャ伯父さんに語るセリフです。

・・・でも、仕方がないわ、生きていかなければ!ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長いはてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてそのときが来たら、素直に死んでいきましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなに辛い一生を送って来たか、それを残らず申し上げましょうね。すると神様は、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るいすばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち――ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの……。ほっと息がつけるんだわ。
その時、私たちの耳には、神様の御使たちの声がひびいて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして、私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界中に満ちひろがる神様の大きなお慈悲の中に、呑みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活は、まるでお母さまがやさしく撫でてくださるような、静かなうっとりするような、ほんとに楽しいものになるのだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの……。
お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いていらっしゃるのね。あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。……やがて、息がつけるんだわ。……ほっと息がつけるんだわ!・・・(新潮文庫 神西清訳)

カムカム エヴリバディ

Come Come Everybody
Jazz Collection Original Soundtrack

可笑しみの中に切なさがあると言っていいのか、切なさの中に可笑しみがあると言っていいのか迷いますが、毎朝が楽しみとなってしまったNHKの朝ドラ 「カムカム エヴリバディ」
メインテーマのサックスが素敵だなぁと思っていたところ、演奏が渡辺貞夫さんと知り、CDを買ってしまいました。

ドラマの時代背景を追うようにディキシーランド・ジャズ、スゥイング・ジャズ、ハードバップ、ファンキー・ジャズが編み込まれ、ドラマ全編を彩ります。
音楽担当は米米CLUBの金子隆博さん。演奏には、金子さん率いるビッグ・ホーンズ・ビーの面々、MITCHさんらの他、大御所 北村英治さん、渡辺貞夫さんが参加。
ジャズ・スタンダードのカヴァ―と新たに書き下ろされたナンバーがとっても楽しい二枚組。
聴いているととっても明るい気分に・・・いい買い物でした (#^^#)

中村吉右衛門 熊谷陣屋

昨晩、NHKで「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」がノーカットで放映され、中村吉右衛門さん渾身の舞台を偲ばせていただきました。

一枝を伐らば、一指を剪るべし
源氏の武将熊谷次郎直実の陣屋、源義経が、熊谷が持ち帰った平氏の若武者平敦盛の首実検を行います。その場には、熊谷の妻 相模と敦盛の母 藤の方が居合わせています。
しかし、熊谷が差し出したその首は、敦盛のものではなく、熊谷の息子 小次郎のものでした。熊谷は、取り乱す妻と藤の方を制し、「一枝を伐らば、一指を剪るべし」と書かれた義経の主命の制札を手に義経の言葉を待ちます。義経は、身替りの首を実検し、敦盛に間違いなしと断言します。

義経は「一枝を伐らば、一指を剪るべし」の制札に事寄せ、熊谷直実に、敵の武将 平敦盛の命を助けよと命じていたのでした。
熊谷は主命にこたえるため、同じ年頃の息子小次郎の首を身替りにしたのです。

敦盛を救う務めを果たした直実は、義経に出家を願います。墨染めの衣に身をつつみ、息子小次郎が生まれてからの十六年が夢のようと、立ち去っていきます。

大義の前に、わが子の命さえも犠牲にするのが武士の社会であったとは言え、子を討った悲しみと嘆きに涙した吉右衛門さん渾身の舞台でした。

KGBの男-冷戦史上最大の二重スパイ

The Spy and the Traitor
KGBの男-冷戦史上最大の二重スパイ ベン・マッキンタイアー

サマーセット・モームやジョン・ル・カレのスパイ小説を凌駕する面白さ。
本書はKGBの上級職員でありながら英国情報機関MI6の協力者となったオレーク・ゴルジェフスキー氏および関係者への取材に基づく実録。巻頭の東西情報員たちの写真も興味深く、数枚の写真は、当時、極秘の写真であったことでしょう。
ゴルジェフスキ―氏がMI6の協力者となったのは1974年。MI6は、氏の正体がKGBに露見した場合に備え、氏をソ連から英国へ脱出させる計画を同時進行しつつ、情報活動をすすめます。・・・1985年7月、脱出計画作戦名「ピムリコ」が発動されます。
大韓航空機撃墜事件、フォークランド紛争、グラスノチ、ペレストロイカ、ベルリンの壁等々の言葉が思い出される時代のドキュメンタリー。インテリジェンスと外交、情報機関と政府との関係など興味深い事実を知ることができました。

情報機関は対象国内に情報提供者・協力者・工作者をリクルートし情報活動を行うのが常道。リクルートの対象となるのは対象国の役人、政治家、ジャーナリスト、財界人など政治経済、世論の形成に影響力をもつ人々。
マーガレット・サッチャー(保守党)が首相を務めていたとき、労働党の党首であったマイケル・フット氏が、ソ連側の情報協力者として多額の報酬を受け取っていたというのは驚きでした。フット氏はこのことが公になった時、名誉棄損の訴訟をおこし勝訴していますが、レーニンの言うところの「有益な愚か者」であったのかもしれません。「有益な愚か者」とは、うまく利用すれば、本人の自覚なしに、操縦者の意図する目的に賛同させることもなく、こちらのプロパガンダを広めさせることができる人物の意だそうです。   

ある情報機関幹部は、対象国のスパイをスカウトする際、以下の助言を情報員に与えたということです。
「運命や生来的特徴によって傷ついているものを探せ。・・・劣等感にさいなまれている者、権力や影響力を求めているが不利な境遇のため挫折した者たちだ。」
スパイ活動を行う四つの動機は、MICE・・・Money(金銭)、Ideology(イデオロギー)、Coercion(強制)、Ego(自尊心)なのだそうです。金銭的報酬を与えること、弱みを握り恐喝すること、政治的信条により共感させること、社会的認知を与えることにより自尊心を満足させることにより、対象人物をスパイとしてリクルートしていくことができると・・・なるほどと納得した次第です。

友あり駄句あり三十年  東京やなぎ句会編

十月に鬼籍にはいられた柳家小三治さん、東京やなぎ句会で句を詠まれていました。俳号は土茶。
他にも会員は、入船亭扇橋さん、永六輔さん、小沢昭一さん、桂米長さん、などなど、名前を拝謁しただけでも、どんな句会だったのだろうと楽しくなってしまいます。
句会実況中継、各々が選ぶ自選駄句と俳句についての所感「俳句と私」・・・たのしみ満載の一冊でした。
句会の会則には罰則もあり、これがまたなんとも面白く、らしいなぁ~と思えてしまいます。「欠席者は当日の会費、賞品、兼題句を代理人に託さなければならない。代理人は女性(未婚女性または欠席せんとするものの配偶者)に限る。代理人を派遣できない甲斐性なきものは、罰金五千円の納入をもってこれに代えることができる。」

柳家小三治さんについての稿を少し抜粋してご紹介します

土茶(柳家小三治)

鶯のかたちに残るあおきな粉
刈り立ての頭撫でてる夜寒かな
ほう鰯だね横目でネクタイほどきつつ
足の裏ひとり押してる信長忌
行く春やごみのんびりと神田川
ふわふわといつのまにやら弥生かな
ぶらんこのまだ揺れている揺れている
時おりは怒ったように春の風
冷奴柱時計の音ばかり
煮凝りの身だけよけてるアメリカ人

我が愛しの駄句  柳家小三治(土茶)

駄句か駄句でないか判断するのは難しい。・・・・・・私も作ってみましたがどうでしょうとお見せくださる方もよくあるが、丸っきりわからない。その人がいい句だろうと思えばいい句だろうし、極論すれば、どうでしょうとひとさまに聞かなきゃならないような心の持ち方がすでによい句とは言えないと言い切ってみたい。
このごろそう思うようになった。のであって、やはり、人はどうみるのだろう、と作り上がった句を見直してしまう。・・・・・・だから、私も作ってみましたがどうでしょうという気持ちはとてもよく分る。できれば、これは素晴らしいと褒めてくれればいいなァという下心も身に憶えは十分にある。が、今迄私も作ってみましたがどうでしょうと見せられて、素晴らしいとかいいとか、言ったことは何度もあるけど思ったことは一度もない。・・・・・・つまり、私にはひとの句を見てよいと評価できる能力がない。ただし、よいとは思わなかったものを別の人がこれァいいと褒めた途端に急によく見えてくる。・・・・・・と心から思ってしまう特技を私は持っている。早い話が俳句はわからない。わからないのである。・・・・・・

「俳句仲間」 ・・・小沢昭一さんが語る小三治さん

柳家小三治さんは、ご承知のとおり当代の落語会を代表するひとり。・・・・・・そのくせこの人は、クラシックをはじめ洋楽が好きで、ステレオやカメラなど機械ものにも凝り、またご存知オートバイを乗り廻し、いつもアメリカへ行きたがっているという、およそ古典派の噺家さんの一般的なイメージとはかけ離れたワイド人間なんです。

・・・・・・手なれたうまさになることを自分で警戒し、素直な実感を大切にしているようです。でもご本人は、そんなつもりはオクビにも出さず、いつも、そらっとぼけているのですよ。

字幕の花園  戸田奈津子

字幕翻訳者の第一人者、戸田奈津子さんのエッセイ集。映画にまつわる戸田さんのエピソードの数々、読んで楽しい一冊でした。

数年前でしたか、戸田奈津子さんが「サワコの朝」に出演された時も、とても興味深い話をされていました。以下、メモ書きです。

字幕を作るときの大事なルール・・・「1秒間に3文字」
3秒間で話される英語のセリフは、9文字で日本語の字幕をつくる。5秒間で話される英語のセリフは,15文字で日本語の字幕をつくる…ということ。
例えば4秒で話される英語のセリフの字幕
直訳 ⇒ 「俺たちを見ろ!俺たちはまだ死んでいないぞ。みんなが俺たちを笑っている。全世界が俺たちを笑っている。」  42文字
意訳 ⇒ 「世間の物笑いのまま終わりたいのか。」  17文字
原文が何を言いたいのかを頭にいれ,そこからエッセンスを取り出して日本語にしている。直訳ではなく、役者の気持ちを伝えるため、役者の気持ちになってセリフを考えている。

日本語の字幕文化を考える
最近の映画は吹き替え版が多くなってきたのは、活字離れがおこり、日本語がわからない日本人が増えてきたのがその主たる原因。それなら日本語を教えればいいということになるが、そうはならない。映画会社は,客をたくさん呼びたいから,客に合わせて、日本語のレベルを下げることを字幕作成者に要求する。例えば…少しと難しい漢字を使うと,若い子に読めないから平仮名にしてくれと字幕作成者に要求する。(すなわち、字数が多くなる)

カタカナの映画のタイトルが多くなったのは・・・
以前は,外国映画の題名に邦題(日本語の題)がついていた。
Gone with the wind→「風と共に去りぬ」
Bonnie and Clyde→「俺たちに明日はない」
ところが最近の外国の映画の題名は,カタカナがやたら多くなった。
Avengers→「アベンジャーズ」
The Lord of the Rings→「ロード・オブ・ザ・リングズ」
ようするに,英語の題名の音声をカタカナで書いて邦題にしているということ。

何故、そうなったのか?映画の邦題を考えるのは,映画会社の宣伝部の仕事。以前は,アメリカで公開される映画は,その1年後に日本で公開されていた。だから,映画の内容を見て,邦題を考える時間があった。現在は,世界同時公開が普通になった。インターネットで映画の英語の題名が、瞬時に広がり誰でも知っている状態になる。そのため、ゆっくりと映画の邦題を考えている時間が取れないのがその理由。

映画の字幕作成者を志している若者へ
英語ができれば字幕ができると思うのはとんでもない間違い。まず,日本語ができないと話にならない。日本語の語彙が豊富でないと訳するときに適切な言葉を見つけることができない。日本語と英語の両方をしっかり勉強すること。

字幕の花園  戸田奈津子

アフガニスタン 山の学校の子どもたち 長倉洋海

「お医者さん、エンジニア、先生、大臣、パイロット・・・・・学校は、それぞれの夢に向かって飛び立つための、大切な翼だ。」
子どもたちは朝5時に起床し、牛・山羊・羊の放牧、生活用水を川まで汲みにいくという仕事を終えてから学校に向かいます。学校が終わるのは12時。午後は放牧の仕事が待っています。
いきいきとした子どもたちの笑顔、過酷な環境の中で日々の生活を営む人々の姿が写真とエッセイを通して語られます。彼らを見つめる長倉洋海氏の眼差しはやさしくあたたかい。
著者の長倉洋海氏は、ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻した翌年の1980年より、アフリカ・中東・中南米・東南アジアなど世界の紛争地を訪れ、そこに生きる人々を取材するジャーナリスト。アフガニスタンの取材は実に40年に及びます。
長倉氏が、カブールの北方、パンシール渓谷にある「山の学校」の子どもたちに初めて出会ったのは、北部同盟がカブールを奪還しタリバン政権が崩壊した翌年の2002年6月。戦争中閉鎖されていた学校がやっと再開したばかりのころ。
「山の学校」は地元の人たちが子どもたちのために自分たちの手で建てたイスラムでは珍しい男女共学の学校です。
長倉氏を「山の学校」に案内したのは北部同盟の指導者マスード。マスードは近隣国に侵略され続けたアフガニスタンの自主独立を願い、ソ連やパキスタンの支援を受ける原理主義集団タリバンと戦い続けてきましたが、アラブ人の自爆テロにより命を絶たれます。
マスードは「未来を創るのは子どもたち。戦争が終わってからでは遅い。今から子どもたちの教育が必要なんだ。」といつも語っていたと言います。

山の学校の子どもたち