知恩院の桜

華頂山知恩院は、法然上人が開山した浄土宗の総本山。三門の桜が美しかったです。佛教大学の新入生祖山参拝の日であったらしく、多くの学生さんで賑わっていました。

京都の本屋さん 恵文社 一乗寺店

京都にお住いのFBFが紹介されていた本屋さん。今日こそはと、銀閣寺からてくてく歩いてやっと到着。
イギリス ガーディアン誌が2010年発表の「世界で一番美しい本屋10」で、唯一選ばれた日本の書店と知り、さもありなんと思う本屋さんでした。

最近、何処の本屋さんに行っても、本の陳列、ラインナップはほとんど同じなのですが、ここはとっても個性的。書籍は、何かしらのテーマのようなもので並べられていて、かといってジャンルがはっきり分けられているようでもなく、読みたいと思っている本を探しにくいと言えば探しにくいのですが、その代わりに、読んでみたいと思える本に偶然出合えそうでワクワク。本好きな人なら、半日は十分に過ごせそうです。
ジョルジュ・バタイユ、澁澤龍彦等の書が並ぶコーナーがあるかと思えば、あちらでは開高健の全集が紐くくりで積まれおり・・・まぁ~店内をうろつきまわるのが楽しい本屋さんなのです。

白沙村荘

久しぶりの銀閣寺界隈・・・
浄土寺橋より、白川疎水を左に見ながら今出川通りを慈照寺(銀閣寺)へ向かい、しばらく歩くと白沙村荘に至ります。もともとは、京都画壇で活動した日本画家、橋本関雪が造営した邸宅で、池泉回遊式庭園は7400平方メートルの広さ。居宅、画室、茶室、持仏堂、平安から鎌倉時代にかけての石像美術品が巧みに配置されています。
邸内には関雪の作品や収集品が展示されている橋本関雪記念館(MUSEUM)も建てられ、二階から眺望する東山は京都ならではの景です。

白沙村荘の隣には「お食事どころ はしもと」、予約をすれば白沙村荘内の座敷で会席を用意していただけるとか。その横にはスペイン風の洋館のレストラン「NOANOA」、テラス席でワインでも飲みたいところ。次回はどちらかで食事をすることにいたしましょう。

久しぶりの外歩き 京都七条界隈

~ 西本願寺・島原・東寺・勧智院~

鞄の修繕をお願いに京都駅近くにある鞄屋さんへ行ってきたのですが、このまま帰るのもなんだしと界隈を散策しました。
七条通りを西へ進み、四十年ぶりに修復されたという西本願寺の唐門へ。日が暮れるのを忘れて見とれてしまうほどの美しさから「日暮門」の別名がある唐門、豪華絢爛でした。

さらに西へ進み島原へ。島原大門を抜け、少し足をすすて右に曲がったところに、元禄年間(1688~1704)創業の置屋、輪違屋(わちがいや)があります。輪違屋より大門の通りに戻り、さらにまっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。

けっこう歩きましたが、南に下り、東寺をお参りして帰ることにしました。真言宗総本山 教主護国寺 東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院。青空に五重塔が映え、いい姿でした。

鞄の修繕ができたら電話をいただけるということなので、次回の京都をたのしみに帰りました。

西本願寺

島原

島原大門

京都の花街 島原跡地。寛永八年(1641)、六条三筋町より現在の朱雀野の地に移転することになりました。その時の移転騒動が、島原の乱(1637)を思わせたところから「島原」と呼ばれるようになったということです。「島原」の正式名称は「西新屋敷」。遊宴をすることにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで江戸中期には島原俳壇が形成されていました。

輪違屋 (わちがいや)

大門より少し足をすすめ右に曲がったところに輪違屋があります。輪違屋は、太夫や芸妓をかかえていた元禄年間(1688~1704)創業の置屋。現在の建物は、安政4年(1857)に再建されたものです。内部の拝観は出来ないようです。

角屋

輪違屋より大門の通りに戻り、まっすぐ進むと、やがて角屋の板塀が左手に見えてきます。角屋は、寛永18年(1641)、島原開設当初から続く揚屋。揚屋というのは今でいうところの料亭で、置屋から太夫や芸妓を呼んで、遊宴がなされたということです。
文久三年(1863)9月10日、新選組 芹沢鴨は、この角屋で行われた新選組局長クラスの宴会に出席したその夜、屯所で暗殺されました。

真言宗総本山 教主護国寺 東寺

東寺は、平安遷都とともに建立された日本ではじめての密教寺院です。
桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇より東寺を託されたのは、唐で密教を学んで帰国した弘法大師 空海でした。
御影堂では、いまも毎日、弘法大師空海がいらしたときと同じように、
一の膳、二の膳、お茶が出されているということです。

真言宗総本山 別格本山 観智院

東寺の北大門を出ると北総門まで参道が続きます。この参道は、櫛笥小路(くしげこうじ)といい、平安時代以来そのままの幅で残っている唯一の小路だそうです。この櫛笥小路の東側に観智院があります。
観智院は、密教教学の勧学院(僧侶のための教育機関)。所蔵する密教の聖教類は1万5千件以上にのぼります。
客殿は、上段の間、次の間、羅城の間、暗の間、使者の間があり、上段の間では、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」を見ることができました。
客殿の東側にあるのは本堂です。本尊は、五大虚空蔵菩薩。五尊は蓮台に結跏趺坐(けっかふざ)し、獅子、象、馬、孔雀、迦楼羅(かるら)という鳥獣の上に鎮座しています。
愛染明王の梵名は、ラーガといい、赤い色という意味です。人々を招き寄せて煩悩即菩提の境地に入らせる仏さま。煩悩即菩提とは、煩悩を離れて別に悟りはないという密教の教えです。

大原 実光院のお庭と紅葉

大原 実光院のお庭を拝見に (#^^#)
春夏秋冬の景色がほんとうに美しいお庭です。この日も、数名の女性が庭の落ち葉を拾うなど手入れをされていました。「いろいろな落葉は綺麗だけれど、こらからが大変ね。」と作業の合間の談笑が微笑ましくもれ聞こえました。
不断桜も咲き始め、晩秋の景色を楽しんできました。

本家尾張屋の宝来そば

尾張屋の開業は室町時代にさかのぼります。寛正六年(1467)尾張の国の菓子屋が京で開業したのがはじまり。蕎麦の御菓子「そばのお饅頭」「そば板」「蕎麦ぼうる」などで知られます。
今日は名物「宝来そば」をいただきに本店にうかがいました。
宝来そばは、「わりご」という五段の漆器に蕎麦が盛りつけられていて、一碗ごとに好みの薬味をのせていただきます。出汁には利尻昆布をつかっているとのこと。出汁にあわせていただいた蕎麦湯も、とても上品な風味、美味しかったです。

お土産に、お饅頭とそば板を買って帰りました。

梨木神社(なしのきじんじゃ)

京都迎賓館を見学までに、少し時間があったので、久しぶりに梨木神社へ。梨木神社は京都御所東側に隣接。明治維新に貢献した三條實萬(さねつむ)・三條實美(さねとみ)父子を祭神としています。境内には萩の木が多数植えられていて、秋には萩祭りが行われるなど萩の宮とも言われています。
萩の花はもう終わっていましたが、萩に結ばれた俳句や短歌を読みながら参拝してきました。

久しぶりに参拝して驚いたのが、鳥居をくぐるとそこにはマンションが建っていて、参道がなくなっています。脇道から本殿にむかったのですが、あとで調べてみたところ・・・
2013年に梨木神社の本殿の改修費用に充てるこため、開発業者に境内の土地を貸し出すことにしたのだそうです。さすがに神社本庁はこのことを認めませんでした。梨木神社は神社本庁を離脱してマンション建設に踏み切ってしまったということです。

京都迎賓館

三度目の正直 京都迎賓館

実は四月と九月に参観許可をとっていたのですが、いずれもその日の前日に「緊急事態宣言により参観をしていただくことができなくなりました」との電話。二度あることは三度あるという言葉もあるしなぁと思いつつも十月に再挑戦。

京都迎賓館は平成十七年に開館。日本建築の伝統の美と粋に現代建築の技術を取り入れて設計されたとのことで、是非、一度いきたいと思っていました。
緊急事態宣言が解除になったとは言え、コロナ禍対応のための人数制限もあり、一緒にまわった方々は六名。
参観証を門前で見せると、地下一階の受付へ。手荷物検査や身体チェックは厳重。手提げかばん以上の荷物は持ち込み不可でロッカーへ。カメラは可とのことでひと安心。

日本の伝統技術・美術、携わった職人の方々の匠の技に、ため息がでるような時間でした。


聚楽の間

晩餐会などの際、招待されたゲストの控室。

安楽椅子
安楽椅子は、鉄や釘を一切使わない京指物。布地は「西陣織」

竹花篭の飾り台
「漆」、「螺鈿(らでん)」、「竹工芸」などの技法が施されているということです。


夕映の間

会議や晩餐会の待合に使用。 東西の壁面には「比叡月映(ひえいげつえい)」、「愛宕夕照(あたごゆうしょう)」の名の織物作品が部屋をつつみます。
壁面は可動式になっており部屋の大きさを調整できる造りになっているのには驚きました。


和舟

庭園の池を「舟遊び」できる設え。ブータン国王夫妻が和舟をたのしまれているご様子の映像をみせていただいました。


行燈

行灯は本美濃紙を使用。鉄や釘を一切使わない京指物で組まれています。


桐の間

桐の間は、「和の晩餐室」。釘隠しや襖の唐紙などには「五七の桐」の模様。
「五七の桐」は、皇室の裏紋として使用されていましたが、現在は日本国政府の紋章として使用されているとのことです。

座椅子
座椅子の背には「五七の桐」の「蒔絵(まきえ)。桐の葉の色は微妙に違い、同じ模様の椅子は一つもないとの説明でした。

欄間
桐の間の欄間は、截金(きりがね)の装飾が施されています。品名は「日月(にちげつ)」。


イグサの良い部分のみを使い中央でつなぐ「中継ぎ表(なかつぎおもて)」という昔ながらの技法の畳。畳縁は、麻の本藍染が使用されています。


庭園

池を中心に、建物に融け合うように造られ、古来より日本人の住まいに貫かれた伝統「庭屋一如」の思想を体現した庭園。


廊橋

廊橋の船底天井
東西の建物をつなぐ廊橋の天井は、船底を逆さにしたように中央部が高く、両端が低くなった「船底天井」です。吉野杉を使用。橋の四隅には、昆虫の透かし彫りが・・・水面の光が天井に揺れて美しい姿でした。


藤の間

藤の花の花言葉は「歓迎」・・・洋食の晩餐会等に使用される迎賓館で一番大きな部屋です。

壁面装飾「麗花」
壁面装飾は、日本画家の鹿見喜陌(しかみ きよみち)の下絵をもとに、綴織りの技法による織物。39種類の日本の草花が織り込まれています。
床に敷かれた緞通には、「藤の花」が描かれていました。

舞台扉 「截金」
人間国宝 故 江里佐代子の作品。金箔と銀色のプラチナ箔を使用。作品名は、「響流光韻(こうるこういん)」

几帳 きちょう
几帳は、室内の間仕切りや目隠しに使われます。絹の薄織物の「紗(しゃ)」よりも薄い「羅(ら)」織物や漆、京縫い、組紐などの伝統技能が用いられています。


玄関


奥嵯峨 小倉山二尊院

二尊院は、小倉山の麓に在ります。

「京都に行く時はいつも親父(坂東妻三郎)のお墓参りに行きます。嵐電(らんでん)に乗ってね。嵐電には『蚕の社(かいこのやしろ)』『「帷子の辻(かたびらのつじ)」といかにも京都らしい名の駅があってね …… 二尊院というお寺なんですけど、なかなかいいお寺ですよ。』と追悼番組のなかで生前の田村正和さんが語っていらっしゃいました。

二尊院は、千二百年前、嵯峨天皇の勅願により建立。阿弥陀如来と釈迦如来の二尊が祀られています。鎌倉時代には法然上人が在住、法を説かれたということです。
明治維新までは天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の道場でしたが、現在は天台宗のお寺、正式名称は、小倉山二尊教院華臺寺。

久しぶりの奥嵯峨。祇王寺、化野念仏寺と、散策を楽しんできました。

参道・総門

本堂

約三百五十年振りの大改修が行われ、平成二十八年(2016)に完了しました。
六間取り方丈形式の間口の広い本堂は、まことに壮麗な姿です。

阿弥陀如来と釈迦如来


本堂には極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」と、彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遺迎二尊が祀られています。
右に釈迦如来、左に阿弥陀如来。左右相称の金泥塗り、有難いお姿でした。

唐門

天皇の使いだけが通れたという勅使門。

弁天堂

弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神が祀られています。

八社宮

境内の東北、表鬼門に建てられている社です。伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社が祀られているとのこと。

湛空廟

本堂右横の木々に囲われた石段を登って行くと湛空廟に。二尊院で教えを広めた湛空上人の碑が収められています。

墓所

亀山天皇、後嵯峨天皇、土御門天皇の御分骨を納める三帝陵の他、旧宮家 鷹司家・二条家・三条家・四条家・三条西家・嵯峨家のお墓。江戸時代の豪商 角倉了以、儒教学者 伊藤仁斎のお墓など、立派なお墓が広大な墓所に並んでいます。
田村家(坂東妻三郎)のお墓には、どなたかが最近お参りされたのか、お花が手向けられていました。

小倉山荘 時雨亭跡

藤原定家が、小倉百人一首を編纂した場所とされる「小倉山荘」、別名「時雨亭」。
その跡地とされる所は諸説あり、二尊院の墓所から少し登ったところがその一つ。他に、常寂光寺、厭離庵にも跡地とされている所があるようです。
途中、お猿さんに出迎えてもらいながら細い山道を進んでいくとやがて跡地に。木々の向こうに京都の街並みを眺望することができました。

扇塚

吉村流開祖と2代目、3代目の家元を弔い供養するために人間国宝の日本舞踊家・上方舞吉村流第4世家元の吉村雄輝(よしむらゆうき)さんらが建立された扇塚です。