野良犬の値段  百田直樹

書き下ろしによる百田氏初のミステリー。読み始めると書を置くことなく最後まで読んでしまう人が多いだろう。読後に得られるのは一抹のカタルシス。「永遠のゼロ」や「海賊と呼ばれた男」を読んだ時のようなぬくもりは残らない。ミステリーの形をとってはいるものの氏が描きたかったのは現代の世相、マスメディア、マスメディアに言葉を切り売りするコメンテーター、マスメディアに翻弄される人々へのアンチテーゼ…なのかもしれぬ。

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寒い国から帰ってきたスパイ  ジョン・ル・カレ

The spy who came in from the cold   John le Carré

昨年12月、ジョン・ル・カレ氏の訃報を知り、氏の傑作「寒い国から帰ってきたスパイ」を数十年ぶりに再読。

大学卒業後、英国外務省職員として西独(当時)の英国大使館に赴任。しばらくの間、MI5(軍情報部第5課)、MI6(SIS 秘密情報部)で働いていたことがあるとも伝えられている。「死者にかかってきた電話」で小説家としてデビュー。

ベルリンの壁が築かれ東西の冷戦が緊張化していた時代。暗躍する組織と情報部員の姿がリアリスティック。それだけに、冷徹な任務の中に描かれる機微な人の情が切ない。複雑で巧妙なプロット、最後までスリリングな物語の面白さは時代が変わっても色褪せることなく読了。

寒い国から帰ってきたスパイ

若狭路 水上勉 著

「私は九歳で若狭を出た。今では東京で暮らす人間の一人だが、瞼の壁に消え去らない若狭を、主観的に書きとめておくことも、あるいは私のつとめなのかもしれないと思って、この文を書く気持ちになったのである。」とあとがきにある。

水上は、本郷村(現 福井県 おおい町)の生まれ。9歳の時、京都に住む伯父の元に送られ、相国寺の塔頭のひとつ瑞俊院の小僧となる。その後の経歴は省略するが、「雁の寺」、「金閣炎上」、「飢餓海峡」、「越前竹人形」等々数多くの作品を残している。

さて、若狭は古刹が多く風光明媚な地。穏やかな風土に恵まれた地域だけれど、「原発銀座」というあまりありがたくない名で呼ばれることもある。本書の発刊は昭和43年。敦賀市白木地区に高速増殖炉「もんじゅ」が建設されることになったのは、その2年後、昭和45年のこと。

本書は、水上の若狭紀行と共に、発刊当時の若狭地方の写真が数多く収められている。モノクロームで撮られた春夏秋冬の景は、随分昔に見た記憶が懐かしい若狭の風景。何回も訪れている所もあれば、一度訪れてからもう数十年もたってしまっている所、まだ一度も訪れたことがない所もあり、本書をたのしんだ。

本書が発刊されてから50年。読後、この書に描かれている若狭の風景と現在の若狭の風景を見比べてみたいという気持ちがふつふつと起こり、暇を見つけては、若狭路をまわっている今日この頃。

若狭路  水上 勉

キリンの子 鳥居歌集

読んで切ないけれど、その切なさを昇華する言葉の力に出会えます。
手に取りそこにあるすべての歌を読まれることをお勧めしたい歌集です。 第61回現代歌人協会賞受賞

キリンの子

病室は豆腐のような静けさで割れない窓が一つだけある

朝の道「おはよ! 元気?」と尋ねられもう嘘ついた 四月一日

空色のペン一本で描けるだけの空を描いてみたい昼過ぎ

灰色の死体の母の枕にはまだ鮮やかな血の跡がある

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る

爪のないゆびを庇って耐える夜 「私に眠りを、絵本の夢を」

「ち」のそばに「し」の字はありて少女らがすべらせていく赤い銅貨を

サインペンをきゅっと鳴らして母さんが私のなまえを書き込む四月

お月さますこし食べたという母と三日月の夜の坂みちのぼる

振り向かず前だけを見る参観日一人で生きていくということ

慰めに「勉強など」と人は言う その勉強がしたかったのです

ひたひたと廊下を歩く ドアがあく イスに座って 被害を話す

花火観に家族で海へ行った夜ほめてもらった絵は 今 どこ に

友達の破片が線路に落ちていて私とおなじ紺の制服

鉄棒に一回転の景色あり身体は影と切り離されて

手を繋ぎ二人入った日の傘を母は私に残してくれた

「・・・生身の言葉であるから、他者に思いは伝わり、他者を動かしていったのだろう。そこに私は、言葉の本源的な力を見る思いがする。自分の言葉をもった人は孤独ではない。言葉を信じる人に、あるいは迷いつつも信じたい人に、キリンの子が届いてほしい。」 吉川宏志(歌人)

キリンは森へ 川越歌澄句集

川越歌澄さんの第二句集

キリンを実際に見たのは幼いころの動物園。そう言えば長いこと見ていません。アフリカに住んでいる動物ぐらいのことしか知らなかったのだけれど、「キリンはもともと森に暮らしていた動物で、独特な模様は木漏れ日に紛れるためと聞いたことがある。警戒する相手に対しては正面を向いて直立し、木のふりをする。どこにいてもキリンは森の一部なのだ。」とあとがきを読んで知りました。川越さんのfacebookによく掲載される上野恩賜公園、上野動物園の写真を思い浮かべながら愉しく拝読しました。
読んで気持ちがやわらかくなる御句ばかり。好きな句をいくつか…

風やめばやつぱり独り麦の秋

丸善を巡りぬ父の日の父と

一の山超えて二の山春の雨

猛禽の撫肩にして朝曇

ゐどころを探してきのこ日和かな

立春やキリンのこぼす草光る

夏服や撮るときに目をそらす癖

ゆるゆるとキリンの尿る大暑かな

牛蛙世界はちやんと美しい

ただ水のやうに歩かう月今宵

居待月キリンは森へ帰るのか

キリンは森へ

狼の牙を折れ 門田隆将

狼の牙を折れ 門田隆将

狼の牙を折れ 門田隆将 著

昭和49年8月30日(1974年)に起きた「三菱重工ビル爆破事件」のルポルタージュ。

この書の白眉は、捜査にあたった警視庁公安部の刑事等、事件関係者への丹念なインタビューにより、昭和50年5月19日(1975年)犯人逮捕に至るまでの経緯が、捜査官を含めすべて実名で詳細に述べられていること。犯人グループにせまる警視庁公安部の捜査の様子がまるで現場にいるかのように詳しい。

事件発生当時の首相は田中角栄、田中角栄はこの年12月に退陣し、三木武夫内閣が誕生している。

三菱重工ビル爆破事件

ダイナマイト700本分の爆薬が使われ、死者8名、重軽傷者385名の惨事となった。犯行声明を出したのは「東アジア反日武装戦線 狼」と名のるグループ。以後、逮捕に至るまで連続企業爆破事件を起こすことになる。

土田警視総監

被疑者逮捕時の警視総監は土田國保氏。

警視庁警務部長の任についていた1971年12月、同期からの贈答品を偽装した郵便爆弾により夫人の民子さんが爆殺されている。

民子夫人の実父である野口氏は、「民子は苦しみましたか。…そうでしたか。それならよかった。数万の職員に代わって逝ったことだろうから、民子も悔いてはいないだろう。」と述べたという。

土田氏は、この時の記者会見でこのように述べている。「……犯人に私は呼びかけたい。君らは卑怯だ。自分の犯した重大な結果について自ら進んで責任を負うことはできないだろう。しかし少なくとも一片の良心があるならば、このような凶行は今回限りでやめてもらいたい。そして、私の家内の死が善良な何の関係も無い都民、あるいは警視庁の第一線で働いている交番の巡査諸君や機動隊の諸君や家族の身代わりになってくれたのだというような結果がここで生まれるならば私は満足いたします。以上です。」

深い悲しみと怒りを胸内にとどめての二人の言葉であったのだろうと察する。

捜査と報道

捜査は、スクープを狙い捜査関係者に夜討ち朝駆けをかける報道とのせめぎ合いでもあったようだ。

情報管理をつくしても、どこからか捜査情報は洩れるのであろう。逮捕決行日を5月19日と決めたその前夜5月18日の夜、被疑者逮捕の情報を掴んだ記者が土田警視総監宅を訪れる。

要件は、5月19日の朝刊に被疑者逮捕の記事を載せるということである。土田警視総監は記者に懇願する。「輪転機を止めてください。危険です。犯人たちは、すでに次の爆弾を持っている。もし、気づかれたら、捜査官だけでなく、一般市民にも被害が及ぶ可能性がある。」

「人命を脅かす危険性の回避」か「スクープ報道」か。新聞社上層部は「スクープ報道」を優先する。

5月19日早朝、捜査官はこれから行うはずの逮捕がすでに書かれている朝刊を目にする。捜査幹部からの指示は「犯人が新聞記事を目にする前に逮捕せよ。」

7名の被疑者が逮捕される。内1名は所持していた薬により服毒自殺。

超法規的措置

同年8月、マレーシアのアメリカ大使館とスウェーデン大使館を日本赤軍が占拠、彼らの要求により、日本政府は「連続企業爆破事件」の被疑者1名を釈放。1977年、ダッカ事件(日航機乗っ取り)、同じく2名を釈放。

思えば四十数年も前の出来事、しかしながら、読んでよかったと思う一冊だった。

  • 1974年8月30日…三菱重工爆破事件…「狼」 8名が死亡、385人が重軽傷。
  • 1974年10月14日…三井物産爆破事件…「大地の牙」 17人が重軽傷。
  • 1974年11月25日…帝人中央研究所爆破事件…「狼」
  • 1974年12月10日…大成建設爆破事件…「大地の牙」 9人が重軽傷。
  • 1974年12月23日… 鹿島建設爆破事件…「さそり」
  • 1975年2月28日…間組爆破事件…「大地の牙・狼・さそり」 5人が負傷。
  • 1975年4月19日…-韓国産業経済研究所爆破事件…「大地の牙」
  • 1975年4月28日…間組京成江戸川作業所爆破事件…「さそり」 1人が重傷。
  • 1975年5月4日…間組京成江戸川橋鉄橋工事現場爆破事件…「さそり」

花衣ぬぐやまつわる

五年をかけた丁寧な取材による杉田久女とその時代。残された名句とともに、優しい眼差しで久女と彼女が生きた時代が語られている。

甕(かめ)たのし葡萄の美酒がわき澄める
足袋つぐやノラともならず教師妻
鶴舞ふや日は金色の雲を得て
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま
露草や飯(いい)噴くまでの門歩き
朝顔や濁り染めたる市の空
夕顔やひらきかかりて襞(ひだ)深く
花衣ぬぐやまつわる紐いろいろ

下町ロケット

「半沢直樹」の原作者,池井戸 潤さんの作品。主人公は佃 航平というロケットエンジンの研究者。ロケットエンジン開発失敗の責任を取って研究所をやめ、佃製作所という町工場を親から受け継いだところから物語は始まる。当初,佃製作所の業績は好調であった。ある日、商売敵の大手メーカーから理不尽な特許侵害で訴えられる。圧倒的に形勢不利の中で取引先を失い、佃製作所は資金繰りに困り果てることになる。

創業以来のピンチに、国産ロケットを開発する巨大企業・帝国重工が、佃製作所が所有している特許技術を買い取ると言ってきた。特許を売れば窮地を脱することができる。しかし、その特許技術には、佃 航平の夢が詰まっていた。「お前には夢があるのか? オレにはある」と佃航平は,難局に立ち向かっていく。・・・・

おくのほそ道 素龍清書本(復刻版)

敦賀は「おくのほそ道」の最後の歌枕です。芭蕉は、元禄二年の秋、敦賀に入り、色ケ浜で清遊した後、杖と笠を敦賀に残し、大垣へと旅立ちます。敦賀が「杖おきの地」と言われる所以です。

芭蕉は、千住大橋から始めた旅を終え、五年の歳月をかけ「おくのほそ道」を完成します。門人の柏木素龍がこれを清書。清書本の巻末には「元禄七年初夏 素龍書」の文字があります。芭蕉はこの清書本を肌身離さずもち歩いていたということです。
芭蕉の死後、素龍清書本は、向井去来、京都の久米升顕、小浜の吹田几遊、敦賀の白崎琴路をへて、敦賀の西村野鶴の手に渡ります。以来、西村家で大切に保管されてきました。

この西村家所蔵の「おくのほそ道」素龍清書本の復刻版があることを知り、過日、敦賀市博物館で購入してきました。(木箱入りで定価3,000円でした。)
ありがたいことに活字に起こした別冊がついており、こちらを頼りに、ほんとにぼちぼちと読んでいるところです。

十四日の夕暮れ、敦賀の津に宿を求む
月清し遊行のもてる砂の上 

十五日、亭主の詞にたがはず雨降る
名月や北国日和定めなき

橋本多佳子句集

橋本多佳子の句集をなんとか手に入れたいと思っていたところ、FBで懇意にしていただいている友人から俳句関係の書を譲り受ける機会があり、その中の一冊に・・・小躍りしました >^_^<

本書は、多佳子の全作品の中かから三百句を掲載。選はご息女で俳人の橋本美代子さん、多佳子が好んだ句を中心に選をしたとあとがきにあります。註も幼き頃より母を知る娘ならではのもので、浅学の身にはとても勉強になりました。

橋本豊次郎と結婚し九州小倉市中原の櫓山に住むことになった多佳子は、高浜虚子の歓迎句会を機に俳句を志します。杉田久女との交流もこのころより始まり、このあたりのところは田辺聖子の「わが愛の杉田久女 花衣ぬぐやまつわる」に詳しいです。

波に乗る陸の青山より高し
ひとの子を濃霧にかえす吾亦紅
みどり子もその母も寝て雁の夜
七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ
つまづきて修二会の闇を手につかむ
蟻地獄孤独地獄のつづきけり
凍蝶のきりきりのぼる虚空かな
恋猫のかへる野の星沼の星
月天へ塔は裳階をかさねゆく
寒月に焚火ひとひらづつのぼる
星空へ店より林檎あふれけり
八方へゆきたし青田の中に立つ
踊りゆく踊りの指のさす方へ
みつみつと雪つもる音わが傘に
秋刀魚競る忘れホースの水走り
一人の遍路容れて遍路の群増えず
死を遁れミルクは甘し炉はぬくし
いくらでもあるよひとりのわらび採り
げんげ畑そこにも三鬼呼べば来る
なんといふ暗さ万燈願みる

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